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偶然と意図との幸福な融合にゾクゾク ―『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ展』

『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ展 時代を超える像景』 (横浜美術館)

Ernst_Figure_Scapeチラシ
 この前の展覧会もいまだまとめてられていないのだが(汗)、とてもよい作品に逢えるので、これくらいは開催中に(ってあとわずかだけれど…)。
 ※エルンストはまだ著作権が厳しいらしく、個人のちっぽけなブログながら今回画像は載せないことにしました…とっても残念ですがチラシでご容赦ください

 海外からの日本初公開のものを含めて、「フィギュア(像)」と「スケープ(景)」を切り口に、エルンストを観ようと試みた展覧会。
 鳥や女、マネキンや不思議な顔などが、時に愛らしく、ときに不気味に描かれ、フロッタージュやグラッタージュによって生み出された偶然性を持つ文様が森や海に変容していく彼の作品を、「フィギュア×スケープ」はどのように解釈していくのか、タイトルだけでも楽しみにしていたもの。

 そのテーマに沿って、年代を追いながら3つの章をさらに小タイトルで分けつつ、版画、コラージュ、油彩、彫刻など、多様な作品を集めている。

 「フィギュア」をキーワードに時系列を3章に分けた構成。
 世界的に有名な画家の個展としては130点は決して多くはないが、疲れない規模で、多様なエルンストの表現を観られる細やかな内容になっている。
 
 第一章 フィギュアの誕生1919-1927
 第一次大戦から従軍から帰還したエルンストが、その戦争の悲惨と生命の軽視を痛感した若者たちによって起こされたダダの活動にいち早く参画した時期のコラージュや版画に見出されるモチーフから「フィギュア」の誕生を見出し、さらには多様な技法とともに油彩へも拡げられていくさまを観る。

 リトグラフ『流行は栄えよ、芸術は滅びるとも』は表紙を含めた9葉すべてが並べられ、表情も肉体の柔らかさも失ったマネキンが、キリコを思わせる幾何学的な風景の中に配置され、不思議な空間の中にシニカルに、ユーモラスに、そしてどことなくエロティックに描かれている。
 アイロニカルなタイトルと共にそれらの数学的な線を追っていくのは、そこに何が描かれているのか、というよりも、その画を観ている私たちの脳に伝わる刺激が楽しい作業となる。

 コラージュ作品からは、彼の生涯を通じてのモチーフとなる「鳥」が現われる2点。
 横浜美術館の所蔵である『白鳥はとてもおだやか…』と、今回の目玉のひとつである『聖対話』。
 『聖対話』は、厳密にはコラージュではなく、現在は失われているコラージュ作品を写真にしたものであるが、世界に3点見つかっていたものの、これは4点目として近年に発見されたものだそうだ。
 女性の解剖のための人体模型の写真に鳥や扇を配したこの奇妙で小さな作品は、ナチスドイツの退廃芸術展に展示され現在は失われてしまった≪美しき女庭師≫の油彩へとつながり、さらには戦後の作品≪美しき女庭師の帰還≫へと変容して現れる。今回の展示ではこの≪帰還≫が最終章で展示されていることも見どころのひとつ。 

 油彩では当館所蔵の≪毛皮のマント≫をはじめとして、国内の美術館から≪偶像≫(大阪市立近代)、≪子供、馬そして蛇≫(豊田市美)、≪怒れる人々(訴え)≫(京都国立)が、さまざまな手法を組み合わせ、それぞれに多様な質感とイメージを持つ世界を拡げている。観慣れたつもりの≪毛皮のマント≫も、常設展示で逢うのとはまた異なる印象を与えて新鮮。

 第二章 採掘された「フィギュアスケープ」1925-1952
 ここでは両大戦間のフランス、そしてアメリカに亡命した頃に作成されたものが観られる。一章が対象としての“フィギュア”そのものの表出とするならば、二章は描かれた世界に現れてくる“フィギュア”を見つけ出すことがテーマとなっているようだ。
 テーマはともかく、ここからはもう楽しくてしょうがない世界が続く。

 まず嬉しいのは≪博物誌≫の版画が展示替えを含めて全葉観られたこと。フロッタージュの組み合わせによって、多様な像や風景が浮かび上がったこの版画は、そのタイトルとともに豊饒なイメージを喚起してくれる。
 それはエルンストが生涯追い続けた無意識と意識との幸せな共存を分かりやすく伝えてくれる。フロッタージュによって浮き出る板の目や葉脈の文様は、彼の美意識によって組み合わされ、さらに彼の頭に浮かんだ「ことば」を付与されて、魅力あふれる世界に変容する。
 美しい色彩にあふれた油彩作品にも活かされていくのはもちろんながら、偶然性と作為との微妙なバランスがもたらす魔法のような結合が、シンプルな鉛筆の跡を感じさせる濃淡に鮮明に感じられる。
 魔術師に憧れていたというエルンストの、まさに錬金術の基本を提示された思いだ。

 この高まりのままふり向けば、そこにはフロッタージュの森に描かれる「鳥」と「太陽」のシリーズが並ぶ。
 ≪期待≫、そして≪自由の賞賛≫では、深い森の底にある柵のこちら側に白い鳥が留まっている。飛んで行こうと思えばいつでも飛べる状態にありながら、それでも籠のそばに佇む鳥の姿は、そのタイトルと出逢ったときに、“期待”や“自由”の持つ意味を深々と伝えてくる。またこの鳥たちがなんともかわいい表情だから、なお愛おしくなる作品だ。

 そして≪森≫、≪石化した森≫のシリーズ。今回は、岡崎市美と国立西洋、鹿児島市美、富山県立近代などから5点。
 いずれも、今年日本中を楽しませてくれた金環蝕を思わせるリング型の太陽が、暗い森にかかっている、大好きな連作たち。
 欲を言えばここに川村と国立近代のそれも並べて観たかったな、と。これだけでもかなりの迫力、きっと壮観だったろうに。

 暗い森を抜けると一転、そこにはカラフルなグラッタージュによる風景がハッとさせる。特に≪風景(貝の花)≫や≪海と太陽≫は、白い表面の下から浮かび上がる色層が美しく、思わずため息が出る。

 ここではまた、エルンストが「コラージュ・ロマン」と呼んだ挿絵本の代表作からのコラージュ作品が、書籍そのもの、版画、さらに原画で展示されている。『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとした少女の夢』、『慈善週間または七大元素』の、河出文庫からも刊行されたメジャーなものたちは、しばらく離れていたコラージュ作品として再開されたものだそうで、19世紀のさまざまな大衆紙からのイメージを切り抜いたものが組み合わせれ、あるものは滑稽に、あるものは残酷に、あるものはエロティックに、既存イメージの持つ軽薄さや軽やかさと同時にどこかしら意味深な空気をまとって、私たちを物語の奇妙な世界へと誘う。

 さらにはマン・レイによりコラージュ作品の黒白を反転させ、より幻想的な雰囲気を持つ『ナイフ氏とフォーク嬢』は、どこか魔術的なまがまがしさとエロスを湛え、そのダダ的なふざけたタイトルとともに想像力を掻き立てる。
 これらもまた展示替えでかなりの点数を観ることができた。

 ツァラの『反頭脳』の挿絵も、小品ながら赤や緑、青やピンクといった8点のカラフルなアクアチントに、エッチングで描かれた線画が、いろいろな「顔」を作っていてかわいい。

 第三章 フィギュアの再訪1950-1975
 大戦後、避難していたアメリカから改めてフランスに戻ったエルンストの晩年の作品を中心に、彫刻までを含めた彼の造形に“フィギュア”を観ていく章。
 横浜美術館の展示では、スペースの関係か、二章と三章の作品が入り混じっていたので、どうも章のテーマに沿って観ることはなかったのだが、とにかくすばらしい作品たちに出逢えて、すっかり舞い上がる。

 出迎えてくれたのは、彫刻作品≪バスティーユの精霊≫。3m以上のひょろりと細長く、凹凸のある柱のてっぺんに翼を広げた鳥(?)がパカーッと眼と口を開いている。なんとも楽しくてキュートで、すっかり一目ぼれ。置くことが叶うなら(笑)持って帰りたい作品だ。

 ウキウキした気分で部屋に入ると、ルートヴィヒ美術館所蔵の≪パリの春≫に再会。窓か額縁を思わせる矩形のある部屋に描かれた4つの顔(仮面)。どこか陰鬱な感じを残しながらも、ユーモラスな表情をしたそれらの組み合わせは、描かれた1950年という年代を考えた時、激動の時代に生きた彼の絵画に込めたもうひとつの思いを改めて感じさせてくれる。

 ここからは油彩の上品が並ぶ。
 真っ赤な人物の頭部を描いたのかと思いきや、その表情を作っている顔の要素は、キスする2羽の鳥になっているステキな≪鳩のように≫、青から灰、黒を基調に、フロッタージュが重なり合って廃墟のような、城のような風景の中に浮かび上がるのは白馬(騎手)のシルエットとその肩に止まる鳥が美しく、一枚にして繊細で優雅、勇壮で悲劇に富む騎士物語を紡いでいるかのような≪ポーランドの騎手≫。この作品、よく見れば白い馬(か騎手?)の体の部分には、これまた接吻する鳥の姿が…!(かわいい!)

 その隣には当館所蔵の湖の周りに繁茂する苔のような植物の群れがいろいろな動物になっていて、まるで判じ物のような≪少女が見た湖の夢≫がある。

 ここまで、眼に見える世界と眼に見えない世界とをひとつの作品にまとめ上げていったエルンストを強く感じてきた状態でこの作品と再会した時、そこに描かれる像としての“フィギュア”と、描かれている世界としての“スケープ”の分かちがたい一体化をこれほどみごとに表していたのだな、と目から鱗のような思いだった。

 さらに≪ニンフ・エコー≫では、ルソーを思わせるような熱帯の植物の中に、同色の緑で隠れている鳥が描かれる。これもその森の世界はフロッタージュやデカルコマニーで作られている。木の生える崖を遠景で描いたように見える、色彩の美しい≪風景≫も、デカルコマニーだ。

 暗い地底に光る鉱物の輝きを放っているかのような赤い結晶の集積が浮かび上がり、逆三角形の頭部を持つ人体像をあらわにしていく≪大アルベルトゥス≫は、彼が尊敬していた錬金術師の像とのこと。まったく異なる筆致ながらベーコンの肖像画を思い出させたこの作品は、どことなく厳粛な空気を放っている。
 チラシになっている≪ユークリッド≫も、印刷画像ではなんとなく敷居が高いような、小難しい印象が残るが、作品は軽やかで楽しく、もっと魅力的だ。

 そして思わず「キャー」と(小さい)悲鳴を上げてしまったのが、今回初来日だという巨大作品≪嘘八百≫!!
 緑の木漏れ日か、水面の陽の光のような切子状の画面に、鮮やかに浮かぶオレンジの球体(私は果物のオレンジかと思った…笑)。その中に線画で浮かび上がるのは、奇妙な格好や表情をした人体らしきものや、魚のようなもの、鳥のようなものたちなどの動物だ。
 学芸員さんの話によると、所蔵先のポンピドゥでは、子供たちが走りよって触れそうになるため、ギャラリートークなどの時には別の苦労があるとか。確かに子供でなくとも、思わず抱きしめたくなる(って大きいけど;笑)絶品だ。
 もうすでにハイテンションで廻ってはいたものの、この1点に出逢うだけでも来館の価値はある。ほんとうにいつまででも前に佇んでいられる、というか絵の前で飛び跳ねたくなる、自然に笑顔になってしまう、明るくて楽しくて、幸せな作品。

 今回、実はこれ以外にも日本初公開があり、先の≪大アルベルトゥス≫、さらには二つの火山のイメージを描いた≪ふたつの基本方位≫もだとのこと(3つは並んで展示されている)。
 (もっと宣伝すればよかったのに…ポスターも≪嘘八百≫にすればよかったのに…、と)
 
 もうひとつの横浜美術館所蔵品≪子供のミネルヴァ≫も、いつもそのあっけらかんとした表情に思わず笑みがこぼれる作品だが、ここに並ぶとよりその切子細工のような画面の造りの繊細さと楽しげな雰囲気が活きてくる。

 彫刻は、かつて大丸美術館(改装前)で出逢ったユーモラスなものたちと再会、そして相変わらず持って帰りたいチェスの駒≪クィーン、ビショップ、ナイト≫にへばりつき、その後いくつかの版画作品やコラージュがならび(これらもまた造形、色彩ともにかなりみごたえ充分だが、きりがないので割愛;タイポグラフィーの創作のような版画集『マクシミリアーナ、あるいは天文学の非合法的行使』が、エジプトの象形文字のような造形と文字の配列の絶妙なバランスでまた違った作風を堪能できる)、いくつかの鳥のモチーフ作品を味わい、最後のコーナーへ。

 鉄の鋲や木のはしご状のものをつけたミクストメディアの≪偉大なる無知の人≫、エルンストにとって魔術師としての制作の生涯とともにもうひとつの生き方としてのダダ、政治的、歴史的な美術の持つ力への思いであり、そしてこの展覧会のもうひとつのテーマであるのだろう円環としての作品≪美しき女庭師の帰還≫、圧倒的な色彩とテクスチャーの美しい融合を果たした≪最後の森≫で締めくくられる。

 燃焼しきった満足感で出口に向かうと、ユーサフ・カーシュの撮ったエルンストの肖像写真がポツリ。
 自作の彫刻に頬をつけてこちらを見つめる晩年の彼は、若き日の美貌を思わせる端正さを失わず、強い光の瞳が印象的だ。

 ある作品ではより作為を感じさせ、ある作品では偶然性が微妙な組み合わせとして成立したようにも見える、創作としての両者のバランスが自在に、軽やかに譲り合い、拮抗しつつ、融合して飛翔していく。ちょっとずるいな、と思えるほどに理知的でありながら自然で、美しく、妖しく、そして楽しくて愛おしい。

 正直なところ、コンセプトとしての「フィギュア×スケープ」の試みの美術館側の解釈は、残念ながら私にはあまり伝わってこなかった…。“フィギュア”の定義がよく分からなかった(単なる「像」の直訳としか感じなかったせいか?)のと、スケープの捉え方が「×」で“フィギュア”と結びついているように受け取れなかったため。
 シンプルに経年で追うエルンスト展でよかったかも。あるいは≪女庭師≫の円環を強めた主題でも(展示内容が変わってしまうかもしれないが…)。

 とはいえ、展示されている作品は、油彩、版画、書籍、彫刻、いずれをとってもエルンストというアーティストの魅力を存分に伝えてくれる。

 まあ勝手に「フィギュア×スケープ」で期待を高めすぎたせいかもしれない。ただその意識を持っていたおかげで、エルンストの作品にいつもより近づいて自分なりの解釈と鑑賞ができた点では感謝だ。

 あまりにも楽しくて珍しく展示替えにも再訪した展覧会。
 まもなく終了だけれど、ちょっと逃すには惜しい内容だ。巡回もあるらしいので、機会があればぜひ。
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テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

“ルドン”を吸収した象徴主義を散策 ―『ルドンとその周辺―夢見る世紀末展』:その2

続:『ルドンとその周辺―夢見る世紀末展 グラン・ブーケ収蔵記念』 (三菱一号館美術館)

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 ルドン展つづき。

 第3部 ルドンの周辺―象徴主義者たち
 ルドンの幻想豊かな黒の世界は、ユイスマンスの『さかしま』などにより、同時代のアーティストに影響を与え、やがて文学運動から発展していった象徴主義に彼の作品も数えられていくようになる。
 印象派が外光を使いそこに在るものを描いていくのに対し、象徴主義は目に見えるものを超えた精神や想像の世界に本質を求め、それらを“かたち”にしていくことを目指した。このためそれぞれの個人的な感受性と解釈がなされ、描かれるものはその画風も印象も多岐にわたる。

 ここでは、ルドンに影響を受け、あるいはルドンが影響を受けた、広義での象徴主義に属する各国の文化やアートに焦点を当て、そこから彼の作品の位置づけを確認できるようになっている。

Moreau 入ってすぐに出逢えるのは、象徴主義の先駆者として位置付けられるモローの作品。
 小品ながら非常に繊細で完成度の高い≪聖セバスティアヌスと天使≫は、中性的な美しさを持った聖セバスティアヌスと装飾的な天使、空に輝く星の表現などがとてもモローらしい一作。

 …しかし展示位置が高すぎてよく見えない…。毎回思うことだがこの美術館、すべてをとは言わないが、暖炉の上に展示するのをやめてほしい…。せめて作品のセレクトを。確かに飾られた空間はそのものとしては落ち着いていて“絵になる”。だが「作品」を観に来ていることももう少し考慮してくれたら。こんな30㎝にも満たない作品を見上げなければならないのはきついし、作品もかわいそうだ。

 もう一点の≪ピエタ≫は、国内にあるものとしては大きめ。真っ暗な空と荒涼とした大地(ゴルゴダの丘)で死せるキリストを背後から抱いて悲しみに暮れるマリア。二人の頭上にはニンブスが光り、キリストの白い肉体とだけが暗く沈んだ画面から浮かび上がる。マリアの表情はマントに隠されて判然としないが、全体を悲しみが覆っている。1章で観たルドンのデッサン≪守護天使≫を想起させる。

Bresdin_2 その後には版画の師匠であったブレスダンの作品が並ぶ。
 『さかしま』にも描写される≪死の喜劇≫、≪善きサマリア人≫も観ることができる。どちらも「これでもか」というくらいさまざまな要素を詰め込んだ細密画となっており、かつそこに描かれるあり得ない自然の描写には、不思議な動物や植物、あるいは怪物があちこちに埋め込まれていて、ちょっとした「モチーフ探し」に必死になってしまう。
 今回は全体的にも高めの展示位置だったので、必死に体を伸ばして、張り付くように観入ってしまう(周囲の人にごめんなさい…)。

Bresdin_1 特に≪死の喜劇≫は、樹の上ではしゃぐ骸骨から、いろいろな形状のふくろう、樹の枝にぶら下がる得体の知れない顔、龍のような貌を持つ樹木、水辺の蛙と猿の混合のような生物、人間と合体したような蝙蝠など、次々と現れてくる怪奇な生き物に魅せられる。彼らの方が活き活きしており、左中央に描かれたキリストも、幹に持たれる老人も、樹の洞で頭を抱える人間も、その存在ははかなく薄い。
 タイトル合わせてちょっとヒエロニムス・ボスの『悦楽の園』を思いだした。

 そしてドイツからはマックス・クリンガーが!
 ファム・ファタル(フランス語だけど;笑)の物語そのものの、美しい女性に恋焦がれて破滅していく男の恋情を、欲望と妄想の中に描き出す彼の神経症的な作品は大好き。

 今回は 版画集『手袋』から全葉が展示されていて、大喜び。
 ローラースケート場である女性が落とした手袋を拾った男のフェティッシュな妄想が描かれて、現実と夢想がないまぜになっていく連作。

Klinger_1 「Ⅱ.行為」は、彼の恋慕の対象となるのだろう女性の後ろ姿を中央に、その手前に自分の帽子を落として手袋を拾う男を、そして奥にスケートをするグループがみごとな対照をなす斜線の構成で描かれる。全体として左に傾ぐ線の中、ひとり右に傾く宿命の女性がひときわ目を引くこの造りに毎回ワクワクする。
 そこから届かぬ想いに苦悶するのか、手袋を前に泣く(「Ⅲ.願望」)、自身を英雄として彼女の危機を救うかのごとく嵐の海に浮かぶ手袋を捉えようとする(「Ⅳ.救助」)、彼女に支配されることを望んでるのか手袋に操られる海馬の風景(「Ⅴ.凱旋」)など、自虐と自賛、悲哀と歓喜、どちらとも捉えうる、多義的でフェティッシュな世界が展開される。
Klinger_2 やがて、手袋はプテラノドンのような翼竜に咥えられて略奪されてしまう。それをガラスの破れた窓から必死で捉えようとする腕が見え(「Ⅸ.誘拐」)、最後には、愛の象徴である薔薇の花のもと手袋は休らい、そばには妖精の羽を持ったキューピッドが意味深な視線をこちらに送る(「Ⅹ.キューピッド」)。
 ハッピーエンド/アンハッピーエンド、幾通りもの物語を紡げそうな余白たっぷりの妖しい10葉。
 しばらくルドン展にきていたことを忘れて(笑)、この病んだ世界に没頭してしまう。

Munch 同じく愛や狂気、死をテーマにした作家としてノルウェーからムンク。
 対としての制作意図を持っていたという≪ヴァンパイア≫(モノクロ)と≪マドンナ≫(カラー)、そして全体を朱、瞳だけに緑を入れて、妖艶かつ狂気を思わせる女性の怖さを体現したような≪罪≫が来ている。
 観慣れた作品たちながら、相変わらずそのねっとりとした重たい空気と、痛々しくも底知れぬ怖さを持った女性像に息苦しくなりながら魅せられる。強迫観念的な女性観は、同時にそれを怖れながらも惹かれる男性の持つ昏い願望をも露呈する、エロスとタナトスの代表的な作品たち。

 ちょっと意外だな、と思ったのが、ラ・トゥール。彼の作品では、ちょっと(かなり)隠微な女性裸体像と、あでやかである意味では古典的な花が印象に強く、その交流は主に印象派のグループとだった記憶があったため。
 解説によるとルドンに転写法リトグラフを奨めた人物であるという。
 そして並んだ作品から分かったこと。ここでは、ワーグナー繋がりの作品として取り上げられているらしい…。

Latour 彼の≪幽霊船のフィナーレ≫(オペラ「さまよえるオランダ人」に着想;なんとなく映画『タイタニック』を想像させた船上で抱き合う男女の姿(笑))、≪パルジファルと花の娘たち≫(オペラ「パルジファル」から;聖杯を奪った魔法使いの誘惑である娘たちに誘われるパルジファルの姿はオルフェウスをも彷彿とさせる)は、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」を視覚化した≪ハロルド:山岳にて≫とともに、大地の“気”が集まって、人や自然の形象を創っているような、ロマン主義的で劇的な雰囲気モリモリだ(笑)。

 その隣に、ルドンの≪パルジファル≫が展示されていることでワーグナーに触発された作品として、あるいは音楽を可視化した作品として並べられたことが理解できる。
 ルドンのそれは、激情をその線で表したラトゥールとは対照的に、とても静かな一枚。聖杯を得るために数々の試練を乗り越える無垢で一途なパルジファルの表情がとても印象的で、忘れられないお気に入りでもある。
 
Gauguin_1 そしてゴーギャン。印象派のような作風から、独自の象徴的な内的世界を求めた彼の表現と色彩の論理は、ポン=タヴェン派に、さらにはそこからナビ派へと大きな影響を与えた。
 ここではタヒチでの経験を活かした版画集『ノアノア』から、自らで印刷した自刷りと、友人ルイ・ロワによって刷られたものを並べて、その印象の違いを楽しめるようになっている。

 こちらはルイ・ロワ版の「ナヴェナヴェ・ファヌア(かぐわしき大地)」。ゴーギャンの自刷と比べると、全体的にインクの濃淡と黒と赤の色の置き方が整理されて、描かれているものが分かりやすくなりバランスがある。ただし並べて観ると、刷りのズレ、彫りも木目も見えなくらい濃い黒、サラマンダーの羽の一方にも置かれ、その場の空気全体にも薄くかかっている赤の入り方が、より混沌としたイメージを醸し出し、「かぐわしき大地」の圧倒的なたくましさと怪しさを持つゴーギャン自刷の方が原始的な勢いを持っているように感じる。

Gauguin_2 彼がタヒチに渡るときに壮行会を開いたという「火曜会」のホスト、マラルメを描いた版画も来ている。
 背後の闇に浮かび上がる鴉はマラルメが訳したポーの『大鴉』に、そして不自然にとんがった耳は彼の代表作『半獣神たちの午後』への言及とされるこの肖像画は、偏屈男ゴーギャンの素直な尊敬が感じられて好きな一枚。ちなみに彼が作成したエッチングは、これとあともう一点しか見つかっていないという、珍しいものらしい。

 そのまま流れは、ポン=タヴェン派からナビ派の作家たちに。
Bernard エミール・ベルナール≪ポンタヴェンの市場≫は、ゴーギャンと共に「総合主義」の試みを実践していた、「クロワゾニスム」の黒い輪郭線と、陰影のない平坦な色彩で、平面性の強い作風の典型と言える。
 市場に陳列された色とりどりのリボンが、画面中央で縦のリズムを作り、描かれた対象である人々を分断する。この地方の民族衣装である黒いドレスと白いベールの群れの中に、左側に立って商品を見つめる女性の赤毛と、リボンの下に並べられた果実(?)の鮮やかな球体が画面を引き締めている。
 女性たちの表情ものっぺりして感情をうかがわせず、背景を含めて大勢の人が描かれているのに、どこか非現実的な、時間を止めてしまった静寂に凝固する。その凝固が独特の詩情を生みだしている。いいなー。

Serusier_1 ナビ派の創立者とされるポール・セリジェは、その流派の中でも特に神秘的なもの、超自然的なものへの意識を強く感じさせる作品が多い。
 流派結成の宣言ともいえる≪タリスマン≫をはじめとして、今回観られた≪森の中の焚火≫も焚火の赤が、夜の森全体に反映し、その火を囲む人間は画面左下方に小さく、全員黒マントをはおった姿でうずくまっており、なんとなく不穏で幻想的な空気をたたえている。

Serusier_2 さらに≪消えゆく仏陀―オディロン・ルドンに捧ぐ≫は、文字通りルドンが亡くなった年に描かれた彼へのオマージュであり、ルドンも繰り返し描いた仏陀が彼自身を示唆し、水底に沈んでいる。水面から送られる光の泡と、ゆったりとたゆたう魚たち、砂の上にはトカゲ(サラマンダーらしい)が仏陀を守り、慰めている。静かな冥福を祈る(わかりやすい)作品。

 そしてもちろんドニ!
Denis 1点だけだが、≪なでしこを持つ若い女≫は、筆のタッチをそのままに少し粗めの点描画ともいえる描法、前景に人物像、背後には遠景の風景を配した、ある時期のドニの特徴的な作品。
 体を横にして口元に小さな花束を持ち、顔だけをこちらに向けたやや丸顔の女性は、印象的な目元と視線で観る者を惹きつける。全体をグリーンの濃淡で彩色された中、手元の花と背後に置かれたピンクが奥行きを感じさせる俯瞰の森の風景の中に散りばめられ、ブラウスと森を流れる川に配された水色~白とともにここちよい繰り返しを生み、彼女の金髪がひときわ輝くように瞳の色と呼応している。これも好きな一枚。

Maillol ここで珍しい作品に遭う。
 彫刻家として知られるマイヨールの油彩が一点、初期のゴーギャンの画風を思わせる、淡く明るい色彩の≪山羊飼いの娘≫。
 解説によると初めは画家を目指していたらしいマイヨールはシャヴァンヌやゴーギャンの影響を受けた作品を創造していたが、目を悪くして彫刻に転向したらしい。ナビ派との交流もあったようで、あまりマイヨールの(彫刻)作品に惹かれない私には(たぶん)初めての絵画作品との出逢いだった。静かな情感漂う一枚ではあるが、やっぱりこれもそれほど惹かれなかったものの…。

 最後にはヴュイヤールとの関わりが深かったというケル=グザヴィエ・ルセルの『風景版画集』から7点展示されている。
 あまり接したことのないアーティスト(ルセルの名は憶えがあるのだが)、カラーリトグラフの特徴を活かし、輪郭線のない、淡い色の転写で風景や形象を浮かび上がらせる。
 風景の中に白く残した余白にドレスの縦縞だけで女性の後ろ姿を造形したり、抽象画のように載せられた白や水色が、ニンフやキューピッド、森で戯れる女性を浮上させる。その手法が視覚に与える影響を楽しめる作品集だ。

 そもそもに象徴主義やナビ派が大好きでこの平面性に弱い私は、すでに「ルドン展」ということを忘れかけていた最終章(笑)。

 しかし、それぞれのアーティストとその作品は楽しめたものの、いまひとつ展示が唐突で関連性を捉えにくい感じが…。
 象徴主義それ自体がひとつの傾向としては捉えられないので、セレクトとしては確かに関連があるし、ルドンの幻想性や神秘性が後世の画家たちに与えた影響を観る、という意味ではズレてはいないのだが、展示がなんとなくぶつ切りで、あまりにあちこちに飛ぶ感が強いので、ルドンとの関連として微妙に意識しにくいコーナーになっているな、と。

 建物の構造とスペースの問題とも思えるが、セリジェの≪消えゆく仏陀―オディロン・ルドンに捧ぐ≫も、先に上げた特設ショップ後の「おまけ」の部屋にあり、せっかくのナビ派とルドンとの関係がその場で感じられないのは残念だ。

 一方、その割にこうした周辺画家の作品の所々に関連しそうなルドン作品が、ぽつり、ぽつりと配されるのだが、このキャプションに作家名がない…。もちろん並びの中で異なる画家の作品は分かるし、知っている作品であればそうと気づけるものの、これはちょっと乱暴だな、と。
 ルドン展だから名のないものはルドン、として処理したのだろうが、モノによっては(人によっては)判断に苦しむだろう。(と思ったら、下部に“追加”されていたらしい…気づかなかった;汗)

O_Redon_15 ルドンの黒も、色も、象徴主義の一部の作品も、それぞれに堪能できる数とクオリティ。
 それだけに今回は、展示空間とその配置構成が(デザインセンス含め;笑)ややひっかかるものとして残る。

 ま、国内に(しかもいち美術館に)これだけのルドンと象徴主義の作品があることは何より嬉しく、巨大なパステルの収蔵祝いとして目をつむるか。

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

黒の果てに生まれる幻想の色彩 ―『ルドンとその周辺―夢見る世紀末展』

『ルドンとその周辺―夢見る世紀末展 グラン・ブーケ収蔵記念』 (三菱一号館美術館)

Redonチラシ
 しばらく展覧会評は事後レポート…(汗)。
 終了間近ギリギリになんとか来訪。

 はっきり言ってセンスのないチラシ(&チケット)デザイン…。
 小作品の多いルドンのパステル作品の中でどんだけ大きいかを強調したかった、その意図は分かるのだが、とても美術館の造ったデザインとは思えない「ベタ」さ(しかもサイズ表示付き…!)の上に、これでもかと統一感のない色彩の多用…。これまたルドンのパステルのカラフルなイメージを踏襲したかったんだろうが、あれは彼の構成の魔術によって美しく輝くのであって、要素だけを散りばめてもねぇ…。
 しかもなぜか和調なフォントデザイン。もうあまりのバラバラ感にはじめは展覧会チラシと気づかず、危うく受付に「チラシください」とうところだった。

 裏面の作品セレクトを4種類も作成したらしいのだが、そんなところに金額をかけるなら、もう少し表面をどうにかした方がよかったのでは?

 と、いきなりの文句から始まってしまったが、巨大なルドンのパステル画の収蔵祝い。今回の他の作品は基本的には岐阜県美術館所蔵のルドンコレクションなのだけれど、やっぱり楽しみで♪

 そして来館してひとつ改善点が。
 前売りチケットの交換システムが廃止され(たんだよね?)、そのまま入場可能になった。これは嬉しい。

 章立てはシンプルな3章。
 第1部 ルドンの黒
 第2部 色彩のルドン
 第3部 ルドンの周辺―象徴主義者たち

 時系列に黒から鮮やかな色彩へと変貌していくルドンの作品を追いつつ、彼に影響を受け、影響を与えた同時代の象徴主義の画家たちで拡がりを見せる構成。

 第1部 ルドンの黒
 病弱に生まれ、幼少期を親元から離れて暮らしたルドンは、その後建築家を目指すも受験に失敗、初めに入ったアカデミーも師と主張が合わず、あまり恵まれた環境に育たなかった。親戚の老人と暮らした家屋で、家具や階段の木目や絨毯の文様にさまざまなこの世ならぬモノを見い出していた彼の幻想性はその頃から培われていたのだろう。
 やがてブレスダンに出会い、細密な風景の中にロマンや幻想を彫り込める版画の世界に啓かれていくことになる。
 まさにその単色の世界と彼の幻想性が結びついて、独特の豊穣な黒と白の世界を生みだしていく。
 
 代表的な石版画集『夢の中で』は11点すべてが展示され、その奇妙な、悪夢のような、そして宇宙的な世界を堪能できる。
O_Redon_1
 卵を思わせる球体の中に現れる顎がない蓬髪の人物「Ⅰ.孵化」、生まれ出る星々が大きくなるにつれて人間の頭部をなし、宇宙と生命の神秘を現わしたような「Ⅱ.発芽」、蝙蝠の羽のような耳で空を飛ぶ顔を持った黒い球体「Ⅵ.地の精」、巨大な宮殿のなかに闇の光と共に出現した大きな眼球「Ⅷ.夢の中で」、黒い太陽を背景にして、ケルビムを暗転させたような有翼の頭を運ぶ、人間の顔の気球「Ⅸ.悲しき上昇」など、どこか禍々しくも怖れ多い神秘性を持った作品たち。

 その非日常的なイメージはしかし、人間という存在の意味を問う、非常に理知的な無意識世界への探究が感じられる。そのためになおこれらのリトグラフは、ザワザワと心を騒がせる何とも言いがたい不安と安堵の複雑な感情を惹き起す。

 同じくまた嬉しいことに全葉が展示される石版画集『エドガー・ポーに』も、さらに洗練された黒の濃淡、石版の使い方によって、より黒という色なき色の多彩さと、描かれた世界の哀愁を秘めた怪奇性を楽しませてくれる。

O_Redon_2 濃いまつげの眼球が気球となって、不気味な頭部を運びながら沼(か海?)の上を浮遊する「Ⅰ.眼は奇妙な眼球のように無限に向かう」(これは初めて観た時にまるで自分の悪夢を視覚化されたような衝撃を受けた、ルドンを忘れられない画家にした一枚)、眼と鼻の仮面をつけた骸骨が鐘を鳴らし、細いペンで引っ掻いたような線がその鐘の音を表し、そのまま陰鬱な響きが聴こえそうな「Ⅲ.仮面は弔いの鐘を鳴らす」、宇宙を思わせる暗い空間に浮かんだ、深い疑惑か思索を感じさせる目を内包した球体と、その空間と水平線を切り裂くかのように入り込んだ天使はどこか不安げな表情でこちらを上目遣いに見ている「Ⅳ.水平線には確信の天使が、暗い空にさぐるようなまなざしが」など、それぞれに付されたタイトルがそのイメージを補完して、謎を深め、さらに深い意味を追って、ルドンの、そして自らの奥へと入っていくことになる。

 いずれも直接的にはポーの作品を示唆しないが、それゆえにこそより小説の持つ雰囲気を雄弁に語り、さらに豊かな印象をもたらしてくれる。(つい再読したくなる;笑)

O_Redon_3 このほか『起源』からは、眼球の花を咲かせる「Ⅱ.おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」や、後の油彩にも現れる一つ目の巨人「Ⅲ.不恰好なポリープは薄笑いを浮かべた醜い一つ目巨人のように岸辺を漂っていた」が、大好きな『ゴヤ頌』からは、老人の頭部を実らせる沼地の植物「Ⅱ.沼の花、悲しげな人間の顔」が、『夜』からは、石板のような重たく羽ばたかない翼を背負った天使の表情が、絶望とも諦めとも取れそうな、それでいて一切の思考や感情を喪失してしまったようないわく言い難い“空”を思わせる「Ⅲ.堕天使はその時黒い翼を開いた」(堕天使の翼の重さが痛い…)、寺院の柱の間に佇む三人の巫女が、悲しげで美しい一幅の詩篇を思わせる「Ⅴ.巫女たちは待っていた」が。
O_Redon_4 『夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)』からは、翼を持った者を襲う黒影が不吉な知らせのような「Ⅳ.かげった翼の下で、黒い存在が激しく噛みついていた」や、友人との日々を懐かしみ、永遠の別れの悲しみをそこに留めて置こうとしたかのような「Ⅵ.日の光」(哀しいと同時にルドンにはめずらしく感傷的なやさしさにあふれている一枚)などなど、見応え充分だ。

 さらに今回は、最初期の版画、そして木炭による素描も楽しめるが嬉しい。
 ブレスダンの影響を強く感じるエッチング≪浅瀬(小さな騎馬兵のいる)≫は、小さな画面に切り立つ崖がいっぱいに描かれ、荒涼な風景画かと思いきや、下部に小さく描かれた騎馬隊が、物語性を強調する。

O_Redon_5 木炭で描かれる≪樹(樹のある風景の中の二人の人物)≫や≪曲がりくねった樹≫は、ルドンのロマン主義的な傾向を感じさせ、森からさまよい出てきたような≪骸骨≫や刺のある枝を伸ばすアーチ型に開かれた空間に佇む俯いた(どうやら)女性を描く≪悲嘆≫は、死と絶望を形象化したようであり、鳥の飛ぶ沼地に咲いた巨大な人頭の植物≪沼の花≫や、電球の形態を持つ気球の中に光りを発する人間の横顔を浮かび上がらせた≪気球≫は、版画に現れる幻想性を先取りしている。

 そして今回最も印象的だったのが、黒鉛で描かれた繊細な二枚の作品、≪守護天使≫と≪永遠を前にした男≫だ。
 何もない風景の中、岩場で天使に介抱されているように見える男の姿を描く≪守護天使≫は、解説によるとフラ・バルトロメオの死せるキリストを描いた素描に拠っているという。確かにやや硬めのフォルムながらバランスのよい男の肢体は、ルネサンスを感じさせるが、男の横顔はルドンの特徴である鼻の筋がくぼまずにまっすぐに描かれたもので、彼の作品がまとう聖性と抒情性の萌芽を持っている。小さなデッサン、しかも鉛筆だけで描かれているのに、その深淵な空気に思わず足が止まる。

 その隣にあった≪永遠を前にした男≫もまた、山の頂上のような岩場で、まだ二足歩行もままならないのではないかと思われる原始的な裸体の男が、岩場に手をついてじっと空を見つめている一枚。巨大な雲が迫ってくるとっかかりのない空間にすくんだように静止しているこの動物とも人間とも取れる生命の存在が、タイトルと合わさった時、雄大な自然と対峙する人間の初めての自我を現わしているように思われ、その深い思索性に魅せられる。
 いずれも画像がないのが残念な忘れられない作品だ。

O_Redon_6 いまひとつリトグラフの≪読書する人≫は、窓からの光の中、大きな背もたれのあるソファに深く腰掛けて本を読む白髭の老人が描かれる。珍しく奇妙な世界とは異なり、光の効果を意図した(ある意味では)現実的な人物像は、それゆえの象徴性を以って非常に重厚な一枚となっている。

 この辺りから、彼の影を強調した作品は、「光」を描く方へとシフトしていく。それと同時に、描かれる対象も美しい女性の横顔や、聖なる対象が多く見られるようになり、やがてそこに色彩が現われる。

 気品ある美しい女性の横顔が、そのまま光を発しているような≪光の横顔≫、やさしい女性の表情が、聖性よりも日常的な愛や温かさを持つようになった≪窓辺の女≫、暗い大きな宮殿の室内から、光あふれる外に現れた巨大な思索する男の貌を描く、まさにタイトル自体にその転換を感じさせる≪光≫など、黒を極めたルドンだからこその黒による光の浮上と、描く対象の変化を感じさせて興味深い。

 そして、≪ベアトリーチェ≫や≪シュラミの女≫に観られるように、初めは多色石版によっておずおずと、そしてそこから一気に色彩の世界が開花していく。

 第2部 色彩のルドン
 まるでこれまでの無彩色の作品から、喪失していたものを取り返すかのように後年のルドンは、パステルを中心に、豊かな色彩の世界を展開する。話題の当美術館が所蔵した≪グラン・ブーケ≫を含めて、あでやかな色の氾濫の世界へ。
 そしてこうしたカラフルな作品は、より神秘なものや幻想性をまとうようになる。

 まずは油彩作品。(ここで挙げる一部は、なぜか(?)最後に特設ショップの後の小部屋に展示されていた…;ちょっと違和感)
 制作年代は不明なものが多いながら風景画も展示されている。それらは、彼の身近な景色を描いたらしく、ずっと手元に置いていたという。緑がかったブルーやイエロー、ピンクが配され、後のパステルいおける独特の色彩感覚をうかがわせるが、どこか人間の存在を感じさせない寂寥を持っている。
 ≪薔薇色の岩≫は、そのタイトル通り荒涼とした中に薔薇色の岩が描かれており、1章で観た≪守護天使≫の岩場を彷彿とさせる。

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 そこから人類最初の殺人現場を描いた≪カインとアベル≫、油彩でも水彩でも多く描かれている≪アポロンの戦車≫やほとんど抽象絵画かと思えるほどに、塗られた絵具の中に、燃えながら墜落していく戦車が浮かび上がる≪ファエトンの墜落≫(これは大好きな作品)などの神話的モチーフから、象徴主義・神秘主義として捉えられる作品たちへ、その色彩と浮遊するような不思議な空間性を持った作品たちが生み出されていく。

O_Redon_7 空に浮かぶ古代神殿を思わせる柱の建つ空間で、頭をたれている若い女性とヴェールをかぶった年配の女性が描かれた≪神秘的な会話≫。床には色とりどりの花が散りばめられ、青とピンク~肌色の色層の中で、若い女性が持つ赤い花の枝が画面を引き締める。羽目を外してはしゃいでいた彼女がその母にたしなめられているような二人の姿は、しかしそのタイトルから神秘思想を視覚化したものと知れる。

O_Redon_8 妻カミーユを描いたといわれる≪瞳をとじて≫は、リトグラフでも制作されているモチーフ。版画のそれは水平線(地平線)に出現した女性の瞳を閉じた頭部が描かれ、彼女の死との関連性で語られることが多く聖性を強く感じさせるが、油彩のものは、花と画面右下から左上へと流れる曲線によって装飾的な印象を与え、瞑想的なそれでいて抒情的なハーモニーを奏でている。

 その狂気と溺死を象徴するように、紫と緑と黒で滲むように描かれた≪オフィーリア≫、愛妻を失った悲しみのために無視したバッカスの巫女たちの怒りに触れて八つ裂きにされたオルフェウスの神話から、その首だけを彼が得意としていた竪琴に乗せて、植物の茂る水辺に漂着させた≪オルフェウスの死≫(これまた大好き)など、物語を詩的に、音楽的に描きだした、美しい作品たちにため息。

O_Redon_9 パステルの作品では、こちらもめずらしく装飾や象徴的なモチーフを一切置かず、灰色の背景の中に凛とした美しい女性の肖像を描いた≪ポール・ゴビヤールの肖像≫が、彼のデッサンの確かさを改めて感じさせ、なおかつみごとな完成度でうっとりさせる。

 後年のカラフルなルドン作品ではこうした女性肖像画によいものが多いのだが、それともうひとつ、独特の幻想的な雰囲気をまとい、静物画なのに非現実的なニュアンスで魅了するのが、「花」である。

O_Redon_12 今回は、点数が少なかったのがちょっと残念だが、≪青い花瓶の花々≫(青い花瓶の色彩と生けられた花たちのオレンジ、赤、青、黄色、白、そして黒が、絶妙なリズムで配されていて渋いのに華やか)、≪黒い花瓶のアネモネ≫(先の一作とは対象的な、図案化されたかっちりしたデザイン、ただ周りを囲む紫と、その中の背景の黄色、アネモネの赤、白、黒が、それぞれに対立する色なのに、なぜか美しいハーモニーとなっているのがお気に入り)から、いよいよお披露目の≪グラン・ブーケ≫へ。

O_Redon_10 繊細なパステルの作品であり、しかも巨大とあっては、おそらくは保存上の関係でガラスケースの設置や照明の問題など、色々制約があったことと思いながらも、この部屋に入った第一印象は、「狭い…」。
 大きな作品なので、ある程度引きでもみたいのに、下がるスペースがない。できればこれは上階のこの美術館で最も広い部屋で観たかった…。

 こちらも青い花瓶に咲き誇る色とりどりの花たち。上部に大きく一本のヒマワリか、それを起点に右側には暖色系の色彩を下方へ流し、左側は寒色系の色彩を上方でまとめている。その間に散りばめられた青い花が、花瓶の青を繰り返し、全体のトーンを整えている。

 しかし…。
 美しいことは否定しないが、あまりに大ぶり過ぎて、いまひとつ感慨がわかない…。

 この作品はそもそもパトロンのひとりであったドムシー男爵の食堂の装飾画として描かれたものだという。確かに、西洋建築の食堂にこの「大きな花束」が飾られていたら、それはさぞかし華やかで、かつ豪華で美しかったことだろう。 
 やはりその場所のために描かれたものだな、と強く感じる。正直なところ、小さな個室に、ガラスの中で、スポットライトを浴びて展示される作品ではないかも。(まあ無理な望みなのだけれど)
 
 うーん、個人的には彼のパステル画は小品の方がよいかな、と。つい部屋を出て、先の「花」の小品2作の前に戻ってしまった。
 ただ、ほんとうに何もかもが大きく描かれているので、ルドンの色彩マジックを覗きこまずに観ることができるのは収穫といえる。
 
O_Redon_11 このほかパステルでは、非常に象徴的で抽象的な空間に浮かび上がる古代ギリシアの怪物を描く≪翼のある横向きの胸像(スフィンクス)≫が来ている。よく見ると背後にはギリシャ神殿の柱のシルエットも描かれており、黒い木炭で描かれた太い線の連なりで表された羽と、女性の横顔の周りに配された黄色~赤が鮮やかな対比を作り、幻想性を強めている秀作だ。

 彼の色彩画を見るたびに思うのが、この「黒」の効果的な挿入である。黒を自在に彩色できたルドンだからこそ、色彩をより豊かにするための黒が活かされているのだ。

 今回のメインを味わったところで、次章では周辺の作家をいくつかの切り口で見せていく。

 さて、すっかりだらだらと続けてしまったので、ひと先ずここまで。
 続きは次回で…(汗)

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

「手紙」が紡ぎ出す多様な「物語」 ―『フェルメールからのラブレター展』

『フェルメールからのラブレター展』 (Bunkamuraザ・ミュージアム)

Vermeerチラシ_1
 相変わらずの事後レポートだが…。

 今年もまた渋谷でフェルメールに出逢える!
 まさに昨年この場所で、フェルメールの前で、東北を壊滅的にした地震に遭ったのだった(幸いに都心部はそれほど大きな被害ではなかったのだが)。
 さすがにちょっと気持ちが向かず、ほぼ一年ぶりの来訪。
 
 フェルメールのための展覧会、他はアリバイ的にしかないものと思いながらも、やはり「手紙」をモチーフとした3点を並べて観られる機会には勝てない…。



Vermeerチラシ_2 今回はチラシも洒落ている。
 デザインはワンパターンながら、微妙な配色の変化で、3枚の作品を美しく刷り分け、思わず全種類集めたくなる造りで、彼の静謐なイメージを伝える(タイトル合わせやや甘過ぎるきらいもあるが…)

 航海技術の発達により世界の海へ進出、東インド会社を設立して貿易で経済発展を遂げていたオランダでは、文化の担い手が教会や王候から新興ブルジョアジーたちへと移行していく。彼らの商社や自宅を飾るそれらは、宗教的主題や肖像にとどまらず、彼らの富や商業の象徴や日常生活の情景などを主題としたものが多く生み出されていく。
 オランダに独特のジャンルを確立した絵画作品の中から、人々の生活水準の向上と共に発達した郵便システムに注目、「手紙」が生み出したコミュニケーションのあり方と、そこから見えてくる彼らの想いや日々の営みを見ていく展覧会コンセプト。
 繊細で、当時の文化水準の高さを感じさせる切り口だ。

 4つの章立てで17世紀オランダ絵画黄金期の作家たちの作品から、当時の生活空間を形づくり、フェルメールの3点へと集約させていく。

 人々のやりとり―しぐさ、視線、表情
 一見さりげない日常を描いているような風俗画も、この時代はすべて画家のアトリエで構成、作成され、その表現世界には当時のオランダにおける教訓やことわざ、格言といった教育的な示唆がこめられていることが多い。
 光と影とが同時に存在したそれらの意味するものを、生活空間の風景とともに感じられる章。
 
 主に宿屋や酒場での情景に多く描かれた人々の姿は、たくましくしたたかで、陽気で愚かで、生命力にあふれる人間の生そのものを、画家たちの鋭い省察の元にあらわにする。

 デ・ホーホの≪トリック・トラック遊び≫、≪女と召使い≫をはじめ、コルネリス・ベーハ≪酒場の情景≫、ヘラルト・テル・ボルフ≪眠る兵士とワインを飲む女≫など、生が性を孕んだ当時の宿屋や酒場の風俗を、男と女の駆け引きの姿を、細密な描写で表した作品たちが並ぶ。

Steen しかしここで最も目を惹くのは、ステーンの≪生徒にお仕置きをする教師≫の一枚。
 近所の子供たちを集めた塾のような部屋の一室で、ひとりの生徒の手に木のスプーンのようなものでお仕置きを加える先生。
 受けている生徒は大粒の涙を流し、それを見守る周りの生徒たちの意地悪な表情やその痛みを想像しているような不安げな表情、それよりも自身の回答を早く見てもらおうとしている者、奥では一生懸命問題を解いている者、子供たちの活き活きとした姿が凝縮された画面いっぱいに描かれる。
 壁にかかるさまざまな日常品や彼らの着衣の質感もみごとで、教室のざわめきが聞こえてきそうな臨場感と、画家の温かい視線に満ちている。

 家族の絆、家族の空間
 オランダで独自の発展を遂げた室内画は、その細密で幾何学的な安定した構図と光の中、温かい家族の肖像をはじめとして、親子の姿、主婦の日常の家事にいそしむ姿から、来訪者との意味深な交流、そして召使との微妙な関係など、そこに描かれた情景にとどまらず、さまざまな「物語」を含み、観る者を魅了する。

 ここでは、最も親密なコミュニケーションの対象としての家族とその空間を観ていく。もっとも17世紀オランダ風俗画らしい作品が並ぶ章。

Bray ヤン・デ・ブライ≪アブラハム・カストレインとその妻マルハレータ・ファン・バンケン≫は、当時でもかなり裕福な階級であっただろう商人の肖像画。背後の地球儀と、脇におかれた書物が、その知識と見識の広さを暗示する。ともに質の高い黒い衣装に身を包んだ夫妻は、さりげなく手をつなぎ、夫の方に身を寄せて笑顔を送る妻の視線が、両者の愛情と頼りがいのある夫への信頼感を現わしている一枚。

 このほかヘンドリック・マルテンスゾーン・ソルフの家族肖像画やルドルフ・デ・ヨングの室内画もあるが、やはりここでも印象的なのは、デ・ホーホの2枚。

de_Hooch いずれも日常の中の母と娘を描いた小さな作品だが、≪中庭にいる女と子供≫は、夕方近い午後を思わせる空気の中、洗濯物(?)の籠と壺を持つ母と、虫籠(?)を持つ小さな娘が静かに語りながら中庭を横切っていく場面を描く。奥のあずま屋では数人の男女が語らっているが、その声は母娘まで届かない。全体に流れる穏やかな空気が、母娘の情愛をみごとに一枚の静止画として残している。すべてが抑えられた色彩の中、母のスカートの赤と、エプロンおよび少女の衣装の白が効いている。

 もう一方の≪室内の女と子供≫は、オランダ特有の幾何学タイルの床がある室内で、デカンタを娘に手渡す母の姿が描かれる。奥の部屋に差し込む光は午前中を示すのか、そして片づけられた部屋は掃除を終えた母が娘に水を入れてきてくれるよう頼んでいる情景を示すのか、こちらもふとした生活の一場面を切り取りながら、ストーリーを感じさせる作品。

 手紙を通じたコミュニケーション
 当時のオランダは識字率がとても高かったらしく、貿易と市民階級の隆盛により、手紙の文化が発達した時代でもあった。こうした背景から画家たちの作品にも、手紙を読む姿が多く残されている。特に女性が手紙を読む姿には、愛の寓意が込められ、それは妖しい禁忌すら含んでさまざまに作品に昇華された。

 まさにその嚆矢たるフェルメールの3作品を中心として、「手紙」をテーマとした作品を観ていく章。

 ≪手紙を読む青衣の女≫を中心に、右に≪手紙を書く女≫、左に≪手紙を書く女と召使い≫を配した空間は、空気が変わる。
 まさに“静謐”としか言いようのない一画。観覧者がいても変わらぬその静けさは、改めて作品がもたらす力を感じさせる。

Vermeer_10 輝きながらも淡い光の中、そのまま消えてしまいそうなはかなさと、同時にしっかりとした存在感を同居させた≪手紙を読む青衣の女≫。修復後で、そのくすみが除かれて、より美しい色彩を取り戻したこの作品は日本初公開。

 思わず祈りたくなるような清冽な美しさに、言葉を失う。
 背後に飾られた世界地図、身重を感じさせる女性のふっくりとしたシルエットは、航海に出ている夫からの便りを、不安と安堵の綯い交ぜの気持ちで開封しているのか…。
 白い壁、鮮やかな水色の衣、その明るさを引き立たせるような椅子の濃紺、そして地図とスカートに繰り返されるベージュのハーモニー。離れて観てもこの一枚はおのずから光を放っているようだ。

Vermeer_11 上品に沈んだ部屋の中で、豪華な毛皮つきの黄色い衣装に身を包んだ女性が、ふと手紙を書いていた手をとめてこちらを見た瞬間を描く≪手紙を書く女≫。

 おでこの広い、どこか幼さを残しながらも、愛され、生活も安定している女性としての豊かさと誇りを備えた美しさを持つその表情に魅了される。
 彼女の前方にあることを感じさせる窓からの光は、スポットライトのように女性を照らし、髪につけたリボンと、真珠のピアスに、フェルメール独特の“てんてん”の白い輝きを与える。
 テーブルに置かれた真珠の鎖、細工の入った小箱は、その衣装と共に女性の地位を暗示し、羽ペンを持つ典雅な手元は、彼女の教育の高さと知性を示す。なんと優雅で気品に満ちた一枚か。この作品、本当に好きだなー。

Vermeer_12 そしてこの2枚に比べると、残念ながらややその気迫には欠けるものの、フェルメールの天才をその筆致のみごとさで感じさせる≪手紙を書く女と召使い≫。

 窓から差し込む光がくっきりと室内を照らし、堅固なタッチで情景を描き出したこの作品は、描かれた情景の持つ「物語」が最も多様性に富み、意味深な寓意を含んでいる。
 わき目もふれず一心に手紙を書く女主人、その後ろでどこか白けた表情で書き上がるのを待つ侍女の姿が、観る者にさまざまな解釈の可能性を示唆する。
 テーブルの手前に投げ捨てられたように置かれた開封された手紙、その脇に転がる封蝋、乱れた椅子の位置、ため息が聞こえそうな窓の外を見る召使いの不遜な表情。
 恋人からの手紙にはやる気持ちを抑えて返事を書いているのか、来なくなった不実な愛人に非難の手紙を綴っているのか、どこか背徳の雰囲気すら感じさせる情景を、澄んだ光が照らし出している。
 女主人の白いブラウスに当たる光が生み出す質感、窓にかかった白いカーテンを透かして届く外光、ペンが紙を擦る音が聞こえてきそうな手元、テーブルに掛けられた布の文様と素材の手触り、平面ながら3Dのような立体感に圧倒される。
 手前左はじに配された分厚いカーテンは、まるで見てはいけないプライベートなシーンを覗き見ているような印象を観者に与え、ますます意味深さを増す。

 この3作品だけで、手紙にまつわる一作の連作短編小説を紡ぎたくなるような、静かなのに饒舌な、満たされているのに謎の多い、静止しているのに動き出しそうな、豊穣な世界に浸れる。

Mieris_the_Elder このほかフランス・ファン。ミーリス(1世)の≪手紙を書く女≫(これも上品な一枚)や、トロンプ・ユイユ的な静物画エドワールト・コリエル≪レター・ラック≫などとともに、当時の手紙の形態や現存する手紙本体なども展示され、文化としての手紙のあり方を感じさせるよう工夫されているが、フェルメールでお腹いっぱい、となってしまう…。

 職業上の、あるいは学術的コミュニケーション
 最後の章では、読み書きの能力が重視された知識層や職業の世界における人々の肖像により、庶民の日常とはやや異なるジャンルでの“コミュニケーション”を絵画として見ていく。

 正直なところ、前章のフェルメールで満足してしまうので(企画者の方、すみません…;汗)、おまけの感じが強くなってしまうが、学者や薬剤師、弁護士など、当時の知識人の姿が、その尊敬にとどまらず、≪弁護士への訪問≫(ヤン・ステーン)などのように、悪徳の面からも描かれているのが、オランダ絵画らしく楽しめる。

Lievens 作品としては、ヤン・リーフェンスの≪机に向かう簿記係≫が、白い髭の質感、顔に刻まれた皺と、衰えながらも厳しさを失っていない眼に見られる人間性をシンプルに描き出していて、印象に残った。
 また、ヘリット・ダウの≪羽ペンを削る学者≫、≪執筆を妨げられた学者≫が、レンブラントの門弟というだけあって、その安定した構図、みごとな筆、テーマの面白さと、学者たちの表情の雄弁さで、秀いでている。この2作はハガキになっていないのが残念。

 フェルメールを(「手紙」をテーマに)3点一挙に観られるというのが最大のウリの展覧会。
 できれはこの3点、一面の壁に文字通り「並べて」観られるとなおよかったかな、と。(会場では3面の壁に飾られていた;これはこれで一枚一枚個別に楽しめるのだけれど)
 個人的にはステーン、デ・ホーホの作品に多く出逢えたのは嬉しかった。

 昨年の『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』よりは、テーマが集約されていたせいか、作品のクオリティが(格別に高いものではないながら)揃っていたように感じる。
 ただ、テーマが集約していた割には、全体を通じたコンセプトの提示については、『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展』の方が優れていたかな、とも。(流れの中にフェルメールを置けた、という意味で)
 フェルメール作品を頂点として、「コミュニケーション」が「読み書き」にずれていった…このため、フェルメールだけがより強調され、ボケてしまったような気が…。
 細やかなコンセプトだっただけにそれがちょっと残念。

 今年はまだフェルメールに出逢える機会が待っている。
 これもやはり(客寄せパンダと思いつつ)パンダに惹かれて足を運んでしまうんだろうな…。

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

洒脱といなせ、江戸っ子絵師の心意気 ―『歌川国芳展』:その2

続:『没後150年 歌川国芳展』 (森アーツセンターギャラリー)


Kuniyoshiチラシ_2
 幕末に咲いた異才絵師の一大回顧展、続き。 

 第5章 子ども絵―遊びと学び
 天保の改革期には、政府からのお達しもあり、規制への対策とそれに対する反発相まって、浮世絵は“啓蒙教化”をテーマとした画題への拡がりを見せている。
 「子ども絵」と呼ばれるこれらの作品は、年中行事や行儀作法といった切り口から子どもたちの情景を描き、当時の節句の様式や、子どもたちの風俗、活き活きとした生態をみせてくれ、歴史文化的にも興味深いものだ。

 ≪子供火消し 八番組ほ組か組わ組た組≫の賑やかで立派な鳶ぶりとやんちゃさが可愛らしい。
 ≪稚遊雪月花≫の3枚は、女の子たちのおしゃまでお転婆な姿がやがて美女図へとつながっていく。(雪月花揃っているのが嬉しいね)

Kuniyoshi_8 印象的なのは版紙を縦につないだ≪子供遊金生水之掘抜≫。井戸掘りの職人たちの労働する姿を子どもに置き変え、高く組み立てられた掘削のための木組みをそのままの迫力で見せながら、“遊び”感覚との絶妙なバランスを持たせた一枚だ。

 縦に組む図柄は、1章でも≪吉野山合戦≫でみごとな五重塔を再現させており、これにも自由なアイデアと大胆な構想に圧倒されたが、江戸の職業と子どもを組み合わせたこの一枚が持つ、構図の妙に盛り込まれた職人技の重みと子供遊びの軽やかさの同居がよい。
 何よりも雄弁で、おおらかで、誰もが楽しめる“啓蒙”ではないか。
 
 第6章 風景画―近代的なアングル
 風景画といえば広重、北斎の傑作が観慣れた世界だが、そうした浮世絵の世界に属しながらも国芳のそれは、どこか不思議な、というか“変な”感じがしていた。
 今回彼がオランダの書籍に入っていた銅版画などの表現を取り込んでいたことが示されており、なんとなくその違和感の元が分かったような。

Kuniyoshi_9 微妙につけられた物体の陰影による立体感、遠景や雲に施された色の濃淡、人物や建築に付された影、そして低く定められた視点など、平面的であることにひとつの美と勢いを持っていた浮世絵が、ここでは不思議な“空間”を持ち、なんともシュールな風景を生みだしている。

 構図の大胆さもありながら、広重や北斎に感じる安定としっとりとした情感や強い印象に比べると、やや描かれた世界は堅く、ぎこちなさが残る。それはこうした今までになかった質感の方に目がいき、異様な雰囲気が気になってくるからかもしれない。

 第7章 摺物と動物画―滑稽な影と摺
 浮世絵とは異なり、特定の人間に向けて作成されたという摺物。凝ったエンボスや高価な金などが使用されたそれらは、大胆な構図や激しい表現で惹きつける国芳の技量に、繊細で精緻なタッチがしっかり根付いていたことを改めて感じさせる。また、お得意の動物画は、想像上のものも含め、やはり活き活きとして、迫力とユーモアにあふれている。
 後半のインターバルであり、次章への序章ともいえるコーナー。

 「風俗女水滸伝」シリーズや≪桜下の御殿女中≫などは、細やかな着物の文様も美しく、顔料の濃淡を活かした上品な作品に仕上がっている(やっぱり顔はワンパターンだけど…)

Kuniyoshi_10 ≪しんば連 魚かし連 市川三升へ送之≫は、大きな黒い鯉のぼりと朱だけで描かれた鍾馗の幟を大胆に切り取って組み合わせたインパクトのある一品。シンプルな造形の中に、恐らくは金であったろう幟の玉の丸と、単色ながら力強くかつ描きこまれた鍾馗図の対比、鍾馗の目と鯉のぼりの目にほどこされた青がとても効いている。

 また、≪八代目市川団十郎追悼摺物≫は、歌舞伎界と浮世絵との深い関係を改めて感じるとともに、(確か自殺した役者だったと…)団十郎の得意演目だった「切られ与三」を国芳が、もうひとつの肖像(児雷也の衣を持っている)を豊国(三代)が描いており、歌川派としての国芳についても再認識する、静かな哀悼を込めた作品となっている。

 そして動物たち。
 武者絵から、国芳の描く動物は本当に魅力的だ。何よりも表情がある。
Kuniyoshi_11 互いに威嚇しあう≪禽獣図絵 竜虎≫は、どことなく慣れ合っているような対話が両者に見られるような。虎の毛に施された濃淡が、この時代のものとは思えない妙な立体感を出している。「校合摺」と合わせ、下絵(といっていいのか)と比較しながら観られるのがまた面白い。

 持って帰りたかった≪金魚に目高≫。
 縦長の画面に、何かの破片に集まる金魚と目高を下部に、上部にはそこから遠ざかっていくそれらを、なめらかな逆S字に配置する。金魚の赤と目高の濃紺のリズムが心地よく、何よりも一番手前のぷっくりした金魚の後ろ姿がたまらない…。金魚というよりも“きんぎょ”な丸い姿態は、鰭で破片に触っているかのようで、なおお茶目な感じが強まる。
 人の見ていないところで、いや、観ているうちに、それぞれがひらひらと動いていきそうだ。目が離せないお気に入り。

 第8章 戯画―あふれるウィットとユーモア
 “きんぎょ”の余韻そのままに、悔しくなるくらいに洒脱な戯画の世界へ。
 武者絵と並び、もっとも国芳を国芳ならしめているのが、このコーナーの作品たち。
 絵を遊び、絵に挑み、江戸っ子の粋と洒落を、次々と楽しく、新しい形で魅せていったもうひとつの真骨頂。

 達磨が手足を出して勝手に飲み食い、暴れまわり、さまざまな職業についたさまざまな動物たちが床几で夕涼みをし、大木の下で雨宿りをし、猫は曲手まりの技を披露する――。

 浮世絵の内容にも厳しい規制が課された天保の改革期、役者絵も美人画も規制された、その中だからこその創意と技で軽やかに反骨精神を示す、その気概とウィットが粋だねぇ。

Kuniyoshi_12 その遊び感覚あふれる創意は、「絵鏡台合かゞ身」シリーズで、猫が、達磨が、その身体と小道具で、みごとな影絵を作る団扇絵にまで広がっていく。そのタイトルの面白さ(「身」がにくい)、団扇の表裏で顕れるものが大きく異なるイメージの変換は、子供の自由な発想をそのままに、同時に視覚というものがどんな作用を持つかを知り尽くした画家としてのセンスに満ちている。

 「猫の当字」≪ふぐ≫では、そのものである“ふぐ”のぷくーっと膨れた身に、ちっちゃく丸まったり、思いっきり伸びたりした猫がはべり、「ふ・ぐ」の文字を作る。
 ≪さむがり狸・初午のたぬき≫は、己の“ふぐり”を炬燵にし、掛け布団にし、時刻を告げる太鼓にする。あるいは、その“ふぐり”を使ってきんぎょの影絵を作ったり。

Kuniyoshi_13 ≪其のまま地口 猫飼好五十三疋≫に並び、もうひとつの猫づくし≪たとゑ尽の内≫は、猫にまつわるたとえをそのまま猫に表現させる。分かりやすいところでは「猫背」、「猫舌」、「猫に小判」あたり。
 今回初めて三枚続きでの展示だそうで、猫の生態をよく観察しつつも、それを人間的な戯画に落とし込んでいるバランスが絶妙で、単独で観ていた時よりも、全体の構成を感じられたのは収穫だ。

 動物でここまで闊達な表現をものする国芳にとっては、人体もまた当然にこうした“遊び絵”の有効な要素として機能する。
Kuniyoshi_14 有名な≪みかけハこハゐがとんだいゝ人だ≫は、組体操のように身体が人間の貌を形づくる。
 どこにどんな身体の人間が嵌めこまれているか、ひとつひとつを解きほぐしていく面白さは、16世紀イタリアの奇才画家アンチンボルトが野菜や果物、動植物で肖像を描いた作品を思い出させる。これらの“組み絵”(とい言ってよいか)は、時を超え、地域を超えて、あるアーティストのひらめきとして、息づいていくのだな、と。

 もう底抜けに楽しくて、かわいくて、機知に富んでいて、跳ねたくなる空間。

 そしてこうした国芳の戯画の中で、最も好きな「きんぎょ」たち。
Kuniyoshi_15 「きん魚づくし」シリーズは、数年前に太田浮世絵美術館で開催されたギメ美術館のコレクションで出逢って以来、惚れ込んだ作品。
 本当に残念ながら初公開の≪きん魚づくし ぼんぼん≫にはお目見えできなかったし、できればここでもう少し点数を観たかったところだが、≪いかだのり≫に逢えたからよしとするか。(画像で観る限り、きんぎょの表情は≪ぼんぼん≫の方が断然楽しめるのだけど;泣)

 なぜ“きんぎょ”を擬人化することを思いついたのか、もちろんその美しさを愛でる文化は確立していたのだけれど、猫よりも(人間の生活に近いし、化け猫話もあるし)、蛙よりも(日本には≪鳥獣戯画≫という傑作が存在しているし)、狸よりも(もともと人を化かす存在だし)、その発想のセンスに脱帽だ。
 
 第9章 風俗・娯楽・情報
 大量に生産でき、コストも一点ものの作品より低く抑えられる浮世絵は、巷の自県や話題を報道するメディアとしての役割も負う。幕末には不安定な世の中を反映してか、その意味合いが強くなっていく。
 ここではこうした江戸の風俗や流行した娯楽、怪談、説話の図像化や、そのもので遊ぶ双六など、人々に伝えて行く、あるいは消化されることを目的とした作品たちが並ぶ。
 
 当時の人々がどんなものに興味を持ち、どんな物語や事件を見聞きし、どんな娯楽を楽しんだのか、そうした情報を国芳ならではの、大胆で華やかな画で感じられるようになっている。

 第10章 肉筆画・版木・版本ほか
 全体から見ると「付」といえそうな、そのほかの彼の画業と、残されている版木などをおいた参考資料的な章。

 貴重な一枚絵の肉筆は、お約束の背景のない美人画だ。ここまで版画を観慣れてきた状態で観ると、絵具の盛り上がりや細やかな筆の跡、鮮やかな色彩が新鮮だ。
 ≪遊女道中図≫、≪白拍子図≫が、それぞれくっきりとした黒と臙脂(遊女)/赤と白(白拍子)の着物と、佇んだ姿の形態が好みだったか。

Kuniyoshi_16 9章、10章の最後に、嬉しくなったのが、≪勇国芳桐対模様≫の3枚摺り(9章に展示)。
 江戸の通りを国芳一門が行進している。それぞれに画号の入った扇子を持ち、さらりと着崩して練り歩く男たちの姿の艶っぽくいなせなことと言ったら!(みんな“イイ男”だし)
 お上がなんと言おうが、景気が不安定だろうが、浮世絵の、絵師たちの、勢いと創造の熱は消えやしねえさ、という気概に満ちている。
 
 圧倒的な作品数と次々と繰り出される激しい表現やアイロニーを込めた楽しい図像に、やや沸騰しかけていた頭の中に、一陣の風が吹く。ものすごくかっこいい一枚だ。

 この作品に触発されたのだろうか、ちょっと前に読んだ岡田屋鉄蔵氏のマンガ『ひらひら』のラストシーンが思い出された。
 国芳の一門に、縁あって入門することになった武士の過去との決別を描いたこの作品、粋と情を凝縮させて、国芳工房を“よい漢”たちの姿に表していて、お気に入り。

 幼さに通じる“あそび”感覚と表現に賭けるプライド、、情にもろく、美に弱く、それでいて決して失くさない不屈の精神と反逆心、江戸っ子の気風にあふれた男の茶目っ気と気概を肌で感じる空間。
 爽やかな疲れが心地よい展覧会。


テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

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