驚嘆、感動の3部作 ―『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』―
『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』高村薫3部作(新潮社)
そのタイトルとロスコの装丁に惹かれて久しぶりに手に取った高村薫氏の作品。
まったく管見にして読んでから知った3部作の最終話だったこと(汗)。
『晴子情歌』も『新リア王』も横目ではみていたものの、そのタイトルにいまひとつ食指がわかず、彼女の作品は体力を要するので(笑)、見送っていたため、いきなり3部からの導入となってしまった。。
『太陽を曳く馬』。正直なところ仏教関連に無知な私には難解で、睡眠誘発になることも多く、常よりもっと時間がかかったが、相変わらずその筆力と構成力は素晴らしい。結局読後、その空気感から抜け出せず、いまさらながら、さかのぼる形で先の2部作にも手を出すことになった。
読後、呆然。
足掛け12年ほどか、いったい彼女の頭の中はどうなっているのか。
その出生に影を負う一人の男を主軸に、「禅」を横糸に、大戦前夜から9・11のテロの現在までの歴史変遷の中、地方有力一族のある3代の「親子」を見事に描いている。
そこには文学観あり、芸術観あり、哲学あり、地方と中央の政治の実態あり、それに振り回される東北の地方産業である漁業の変貌とその生活・価値観、オウム真理教に代表される新興宗教とバブル期の日本、戦中・戦後・現代の世代の意識の隔離などがふんだんに織り込まれている。
3作に共通するのは「穴」。
1作目が「母と子」の孤独、2作目が「父と子」の孤独、そして3作目が「自分と子」の孤独。どうにも埋められない欠落を抱える彰之の「穴」。それはまさに救いがなく、その荒涼とした心が東北の砂丘の風景に回帰する。
びょうびょうと吹く風、灰色の海、ざらざらとほほを打つ砂。埋まらない「穴」の物語。
東京から地方に落ち、そこの有力一族に翻弄されつつも淡々と生きた母の穴、太平洋戦争から帰還した人間の穴、世代交代から没落する政治家の穴、芸術にも宗教にも救われない人間の穴、現代の“軽さ”を生きる若者の持つ穴。それが彰之、彰之の父、彰之に関わった刑事に視点をずらしつつ描かれていく。
ミステリから出発した氏の作品、そこはエンタテインメント性ももちろん、同時にもうひとつの物語の主旋律としての「人の死(あるいは殺人)」が物語を引っ張っていく。『晴子情歌』では彼女の人生そのものが、『新リア王』では、政治家の実態と秘書の死の真相・意味が、『太陽を曳く馬』では息子の殺人事件と禅寺の事故死の真相が。
それは3部に共有される”死”のテーマでもある。
また、北方の漁業描写も、見たことも体験したこともないのに、こちらの空気が凍ったり、生臭くなってくるくらい徹底している。
そして各作品にテーマとなる色。「青」「黒」「赤」。そこに無色透明な冷たい空気が交差する。
どの要素を取り上げてもひと語りできるくらいそれぞれが精密に練りあわされ、構成された傑作の3部作。素晴らしい文学作品になっている。
個人的には老いたる政治家がその息子と語らう数日に一生を描き切った第2部『新リア王』が印象に強い。それこそ「ちょっと大仰なタイトルだな…」と思っていたのを撤回するほどにまさに日本版”リア王”となっている。
『太陽を曳く馬』は自分の知識不足も大いに災いし、読み切れていない、というのが実態だと思うけれど、少々禅や仏教の語りに頼り過ぎている感があり、オウムと並び”テロ”として盛り込まれた9・11の位置づけや刑事の心理の深みが物足りなかった。ただ、まさにそれが現代だという意味ではそうなのかもしれない。
結果としてこの壮大な世代の物語をさかのぼった形になったのだが、却ってよかった。彰之の救われない「穴」のルーツをたどる読み方ができたのは私にとって幸いしたように思う。
久しぶりに重厚感あふれる読後を得られ、大満足。
入りやすいのはもちろん1作目『晴子情歌』。ただどこから読んでも他の2部作を手に取りたくなると思うし、どこから読んでもその構成を妨げるものはない。ぜひお薦めの作品集。
この後、いったい高村氏はどこまで行くのか。ミステリーの女王といわれていた時代がはるか遠く、そしてその頃から(読むのにちょっとした覚悟を要するのだが(笑))、ファンであった私には嬉しい変遷である。
あとは願わくばこうした作品が、”孤高の”といわれずベストセラーになる文化土壌が育ってほしい。
そのタイトルとロスコの装丁に惹かれて久しぶりに手に取った高村薫氏の作品。
まったく管見にして読んでから知った3部作の最終話だったこと(汗)。
『晴子情歌』も『新リア王』も横目ではみていたものの、そのタイトルにいまひとつ食指がわかず、彼女の作品は体力を要するので(笑)、見送っていたため、いきなり3部からの導入となってしまった。。
『太陽を曳く馬』。正直なところ仏教関連に無知な私には難解で、睡眠誘発になることも多く、常よりもっと時間がかかったが、相変わらずその筆力と構成力は素晴らしい。結局読後、その空気感から抜け出せず、いまさらながら、さかのぼる形で先の2部作にも手を出すことになった。
読後、呆然。
足掛け12年ほどか、いったい彼女の頭の中はどうなっているのか。
その出生に影を負う一人の男を主軸に、「禅」を横糸に、大戦前夜から9・11のテロの現在までの歴史変遷の中、地方有力一族のある3代の「親子」を見事に描いている。
そこには文学観あり、芸術観あり、哲学あり、地方と中央の政治の実態あり、それに振り回される東北の地方産業である漁業の変貌とその生活・価値観、オウム真理教に代表される新興宗教とバブル期の日本、戦中・戦後・現代の世代の意識の隔離などがふんだんに織り込まれている。
3作に共通するのは「穴」。
1作目が「母と子」の孤独、2作目が「父と子」の孤独、そして3作目が「自分と子」の孤独。どうにも埋められない欠落を抱える彰之の「穴」。それはまさに救いがなく、その荒涼とした心が東北の砂丘の風景に回帰する。
びょうびょうと吹く風、灰色の海、ざらざらとほほを打つ砂。埋まらない「穴」の物語。
東京から地方に落ち、そこの有力一族に翻弄されつつも淡々と生きた母の穴、太平洋戦争から帰還した人間の穴、世代交代から没落する政治家の穴、芸術にも宗教にも救われない人間の穴、現代の“軽さ”を生きる若者の持つ穴。それが彰之、彰之の父、彰之に関わった刑事に視点をずらしつつ描かれていく。
ミステリから出発した氏の作品、そこはエンタテインメント性ももちろん、同時にもうひとつの物語の主旋律としての「人の死(あるいは殺人)」が物語を引っ張っていく。『晴子情歌』では彼女の人生そのものが、『新リア王』では、政治家の実態と秘書の死の真相・意味が、『太陽を曳く馬』では息子の殺人事件と禅寺の事故死の真相が。
それは3部に共有される”死”のテーマでもある。
また、北方の漁業描写も、見たことも体験したこともないのに、こちらの空気が凍ったり、生臭くなってくるくらい徹底している。
そして各作品にテーマとなる色。「青」「黒」「赤」。そこに無色透明な冷たい空気が交差する。
どの要素を取り上げてもひと語りできるくらいそれぞれが精密に練りあわされ、構成された傑作の3部作。素晴らしい文学作品になっている。
個人的には老いたる政治家がその息子と語らう数日に一生を描き切った第2部『新リア王』が印象に強い。それこそ「ちょっと大仰なタイトルだな…」と思っていたのを撤回するほどにまさに日本版”リア王”となっている。
『太陽を曳く馬』は自分の知識不足も大いに災いし、読み切れていない、というのが実態だと思うけれど、少々禅や仏教の語りに頼り過ぎている感があり、オウムと並び”テロ”として盛り込まれた9・11の位置づけや刑事の心理の深みが物足りなかった。ただ、まさにそれが現代だという意味ではそうなのかもしれない。
結果としてこの壮大な世代の物語をさかのぼった形になったのだが、却ってよかった。彰之の救われない「穴」のルーツをたどる読み方ができたのは私にとって幸いしたように思う。
久しぶりに重厚感あふれる読後を得られ、大満足。
入りやすいのはもちろん1作目『晴子情歌』。ただどこから読んでも他の2部作を手に取りたくなると思うし、どこから読んでもその構成を妨げるものはない。ぜひお薦めの作品集。
この後、いったい高村氏はどこまで行くのか。ミステリーの女王といわれていた時代がはるか遠く、そしてその頃から(読むのにちょっとした覚悟を要するのだが(笑))、ファンであった私には嬉しい変遷である。
あとは願わくばこうした作品が、”孤高の”といわれずベストセラーになる文化土壌が育ってほしい。
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