スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

見つめること、考えること、語ること ―『戦争の世紀を超えて』―

『戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある』 姜 尚中 森 達也 (集英社文庫)


 ドキュメンタリー作品制作、特にオーム事件を追った『A』から、近年では旺盛な著作を重ねる森達也氏と、やはり近年メディアでもその姿をよく見かける政治思想学者の姜尚中氏による「戦争」をテーマにした対談集。文庫版刊行にあたり、広島論も付加されている。

 いずれも一度その著作をきちんと読みたいと思っていた2氏による対談、たまたま『ハート・ロッカー』にもリンクした。
 読後、感じることが多すぎて、まだ上手くまとまっていない…。
 はじめに、の森氏による姜氏の描写が、とても素敵で、彼の観察と記述の的確さをまず実感する一文。

 20世紀は”戦争の世紀”といわれる。
 一次、二次大戦、ベトナム戦争、朝鮮戦争、イラク戦争と、大きな戦争を数えただけでもまさに悲しいことにその名称がしっくりきてしまう。それ以外にも、コソボの紛争、ルワンダの虐殺、と信じられない内紛も併せ、多くの命がささいと思えるようなきっかけでも失われている。

 この著書では、そうした20世紀の悲惨な記憶を残す場所を訪ねつつ、戦争の、虐殺の連鎖の根にあるものを追求し、歯止めをかけられないのかを、歴史的、社会的、人間論的視点から、二人の知的で論理的なやり取りとして綴っている。声を荒げることなく、ともすれば同じところをぐるぐると廻る二人の対話は、しかし、激しく糾弾と絶望と希求とをメッセージする。

 第1章「戦争の世紀のトラウマ」では、ポーランド村民によるユダヤ人の大量虐殺のあったイエドヴェブネから、アウシュビッツ、ザクセンハウゼンの強制収容所址、そしてベルリンの壁跡のデンクマールを訪れ、ナチス・ドイツの行った世紀の蛮行、ユダヤ人の絶滅作戦について、なぜそこまでの行動に駆り立てられたのか、人が人を大量に殺戮することを可能にするきっかけとは何なのか、果たして人間が所与のものとして持ってしまっている衝動なのか、そうした視点から、「加害」と「被害」との関係、暴挙の背景にある「恐怖」や「後ろめたさ」、「国家」と「個人」の関係、そして「記憶」の持ち方と、その記念碑の捉え方について考察を深めていく。
 ユダヤからの視点だけではなく、ドイツの視点を、その「罪」に封印してしまわずに、改めて語り直すべきとの意見には、ゼーバルトの『空襲と文学』を思い出していた。

 20世紀の虐殺現場の、信じられないほど長閑な現在の風景や、被害の記憶に強く彩られたモニュメントを目の当たりにし、空気に触れて、なおさらに人間の持つ残虐さに打ちのめされつつも、ただその感情に流されることなく、その微妙な違和感や、現在の歴史解釈に感じる危険性を、ひとつひとつ拾い上げて、考察し、意識を深化させていく対話は、個々を、歴史を、その事実を、自身の中に個として、”抱きしめる”ことに帰結して、希望を託す。
 二人ともちょっとした気恥ずかしさを感じながら、それでもこの”抱きしめる”ことをその掌に温める姿が、微笑ましくも、泣きたいほどに切ない。

 第2章「勝者、敗者、被害者の記憶」では、東京裁判の舞台となった市ヶ谷記念館の訪問を契機に、東京裁判の意味、そして天皇論を深掘りしていく。
 修正主義の歴史観から、勝者による敗者への懲罰的裁判でしかない不合理な裁判であったことが近年よく出ているが、彼らはそうした東京裁判の位置づけなどもすべて飲み込んだ上で、なお見えてくるものを語る。
 当時のパール判事の、原爆を落としたアメリカ兵も弾劾されるべき、との主張を日本擁護の発言と取らず、世界視野の戦争犯罪というものへの重たい警告として捉えることの必要性は、もっともである。
 戦後の日本はよくも悪くもアメリカの主導の下に廃墟から立ち上がり、現代の繁栄を築いてきた。しかし、そのセレモニーとしての東京裁判は果たして国民にとってきちんと受け止められ、認識されてきたのか、太平洋戦争に対する天皇の責任についても言及しつつ、これまでわれわれ国民が正面に据えて見つめてこなかった東京裁判、ひいては戦争に対して、私たちが抱え持つはずの過去の歴史が、沖縄問題やオウムのテロ事件といった、現代の日本にもたらされているさまざまな社会問題と地続きであることを暴いていく。そこにはマスコミの報道に対する痛烈な批判も含まれる。
 
 そしてそれらの考察は、次章以降、アジアにおける日本のスタンスと受け取られ方の問題、沖縄問題、そして「ヒロシマ」という世界唯一の原爆被爆国としての役割へと繋がっていく。

 第3章「限定戦争という悪夢」は、南北朝鮮の国境にあるオドゥサン統一展望台を訪れ、冷戦構造の中で起こされた悲劇であり、在日韓国人である姜氏にとっては、まさに自身のアイデンティティの一部でもある朝鮮戦争を主体に、同様に内戦の悪夢を経験しながらもなんとか統一国家を保持したベトナム戦争と併せ、内戦という悲劇とその背景である国際社会(主にアメリカ)、そして反省も活かされず、イラク戦争へと繰り返される過ちの根底を探る。
 確かに『ハート・ロッカー』を観たとき、作品としてのよさは文句なしなものの、結局『ディア・ハンター』や『フルメタル・ジャケット』といった作品を評価したかつての反省は全く活かされていないアメリカを感じたのも事実…。
 
 そこには、クラウセビッツの戦争論の時代からは大きく隔たった「正義」や「平和」という抽象的な”正論”に粉飾された人間の「異物排除・嫌悪(フォビア)」の心理が焙りだされる。
 同時にメディアの発達による情報氾濫の結果、戦争の悲惨への想像力の退化と、麻痺・抽象化が、より戦争の現実を感じられなくなっている危うさをも指摘する。
 「無知が不安を喚起する」、ここからオウム問題、そして北朝鮮に対する一方的な敵愾心が醸成されている現在の日本の極端な一極集中の意識の暴走を警告する。

 被虐の歴史は、加虐の歴史よりも人々の記憶に残りやすく、そして他者が否定・非難することが難しいものである。
 自身がその立場だったら…の仮定の論理に基づくならば、被害者の怒りや怨みを否定することはできない。しかし、それでは復讐の、恨みの連鎖は途切れることがない。
 だからこそ、第3者としての視点からの冷静な意見の必要性が出てくることをふたりは繰り返し述べる。彼らは自身が当事者になたっ時に、その憎しみを消すことはできないことを認めつつも、だからこそ被害者への同情は、決して加害者弾劾への同調ではないことを、善悪二元論に集約させない、議論の余地の必要性を訴える。

 この対談でも触れられているが、9.11テロの犠牲者の遺族たちが、恨みや憎しみを乗り越えてイラク攻撃に反対する団体を結成し、世界に呼びかけている、というドキュメンタリ番組を見たことがある。彼らがこの苦しみの中から見出した結論、それは憎しみの連鎖を止めるため。しかしアメリカ国内でも当時は非難され、最も悲しみを受けたはずの当事者たちが、危険を感じるほどに住んでいる街でも排斥されたという事実に、呆然とし、集団意識の暴走の恐ろしさに慄然とした記憶がある。
 主体不在の興奮と暴走、人はなんて弱く悲しいのだろう…。

 第4章「そろそろ違う夢で目覚めたい」で、これまでの戦争の記憶をとどめる地の旅を振り返り、改めてこの悲劇の連鎖を留めることができるのか、その手立てと可能性を探っていく。
 戦時と平時の別れていた20世紀の戦争と異なり、「テロ」とそれを殲滅するための戦いになった21世紀は、戦闘が日常に入り込んでいる状態。そこから来る現代の過剰なセキュリティへの意識、そして日常化していくそうした管理への異和感の喪失、ハイテクの向上による戦争実感の乏しい戦闘手段、ビジネス化する戦争事業の一方、ベトナムから繰り返される人間の感情を破壊する兵士の教育とその末路に抱えた、帰国兵士のトラウマなど、アメリカの”戦争中毒”ともいうべきジレンマに触れ、今の”戦争のかたち”を分析する。
 「害虫駆除」「殲滅」の考えから脱しない限り、永遠に終わることないその戦いの悪循環に脱力感を覚えながらも、敢えて20世紀の戦争の「記憶」と「忘却」を見直し、それを超えることで、解決への道を希求する二人がいる。

 第5章「ヒロシマ、その新たな役割」。
 文庫版に付加されたこの1章では、セレモニー化した広島のイベントを一定評価しつつ、世界で唯一の被爆地という意味で世界的な記憶の場所として認識されきれていない事実とその原因を解明していく。
 アウシュビッツが、その一方的な被虐の強調という問題をはらみながらも、ヨーロッパにおけるひとつの共通「チケット」として存在しているのに対し、ヒロシマは、アジアの共通「チケット」としての役割を負うべき要素を備えていながら、そうなっていないの要因として、アメリカ追従の日本の戦後と、その戦争体験を直視してこなかった、ゆえにいまだ解消しきれていないアジア地域への蔑視感を挙げる。
 また、現在のイラク攻撃の論理が、まさにアウシュビッツなどで共有されていた脅威に対する、恐怖に対する「駆除」の意識であることに改めて立ち返り、近年すっかり定着してしまった「ky」といった用語の危険性にも触れながら、グローバル、ボーダレス化する社会なのに(あるいはゆえに)大勢から外れる者に対する排除の思想が強まる現代という、アンヴィヴァレントな現象について深耕する。

 「絶対他者」はいない。抑止力となるのは、人間の、その考えの多様性を認め、知ること。被害の記憶だけでなく、加害の視点への想像力を持つこと。

 各章は互いにリンクし、重複し、連鎖していくので、上記の内容がそれぞれの章にまとめられているわけではない。全体を覆うようにして「世紀を記憶として、歴史として捉えなおす」彼らなりの視点と主張が一冊になっている。

 人類の残してきた痕には、殺戮と憎しみの記憶が多く、しばしば絶望的になりながらも、なお自身の眼で見て感じることを語る二人。
 そこに入り込んで行って言葉を探し出してくる森氏と、自身の経験とその学究的経験から俯瞰的な視点の言及からアプローチする姜氏と、ある意味対象的な語りのやり取りが刺激的だ。
 特に森氏の言葉は、ナチスの捉え方、ユダヤの問題、日本の太平洋戦争に対する反省と戦後のあり方、アメリカの帝国主義的正義の押し付け、あまりにも少ない日本メディアの世界各地の紛争報道、オウムや北朝鮮拉致問題をはじめとするのマスコミ報道に感じていたことを見事に言語化してくれた感がある。そのスタンスと表現力はかっこよくすらある。
 また姜氏の自身の出自から来る視点、そして滞在してきた海外経験から蓄積された、時空共に広い知識と見識によるバックアップは、ひとつの世紀に留まらず、もっと深く、長い歴史の流れの中で、改めて「戦争」という切り口から20世紀を、人間を、見つめ直す可能性を示唆してくれる。

 たくさんの歴史・政治研究書や映画作品、そして現在の事件、事象、世界情勢、私たちの生活まで、多岐にわたる引用と検証、膨大な情報とそこから考察した意見を通して、戦争のない世界を求める二人の対談は、時に対立し、時にすれ違いながらも、そのダイナミズムを失わず、私たちが、国家が、世界が持つ問題と可能性を探っていく。21世紀になってもなくならない戦争と虐殺の絶望にぶつかりながら、小さな、しかし強い確信を残す。

 歴史を超えるためにはまずはその歴史を「知る」こと。その際に大切なのは、他者への想像力を持つこと、膨らませること。その中で自分の視点を持つと同時に、物ごとは多面的であることを常に意識すること。
 歴史を単なる過去の事実としてのみ「学ぶ」のではなく、人間の、私たちの時間の流れの中で捉えていくこと、記憶していくこと、そこから”考える”こと、そして何よりもそれを自分自身の言葉で「語る」こと。
 岡真理子氏の『アラブ、祈りとしての文学』のメッセージを喚起させる。

 世界の混沌と繰り返される悲劇の中で、そんな個の力は本当に小さなものだけれど、その集まりが、意識の積み重ねが、自分の世代では実現しなくてもいつか戦争を抑止する力になっていくのだ、そんなメッセージが残る。まるでパンドラの箱に残された小さな希望のように。

 ああ、まとまりきらない!!
 とにかく短気で、雑駁な性格、慌ただしい毎日につい色々なことを想いながらも、どうしてもニヒリスティックに考え、途中で放棄しがちなのだが、もう少しその小さな希望のかけらを信じて、自身の”ことば”を紡ぎ出す努力をしたいと思った。


スポンサーサイト

テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

chat_noir

Author:chat_noir
FC2ブログへようこそ!

FC2カウンター
最新記事
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
カレンダー
02 | 2010/03 | 04
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
タイム
検索フォーム


リンク
アクセスランキング
参加しています。よろしかったら投票お願いします。。




人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
RSSリンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。