みごとに円環、傷みと哀しみと救済のオムニバス -『光媒の花』-
『光媒の花』 道尾 秀介 (集英社)
タイトルの持つ美しく優しいニュアンスに惹かれて積読していたら、新作で直木賞の受賞となった。
受賞作の前に読了をと。
父の残した印章店を営む中年男性。店の奥では認知症を患った母が無邪気に絵を描いている。ようやく介護にも慣れ、母を抱えての静かな生活を送ることができるようになっていたこの日、ふと母の描く絵が、彼女が決して知るはずのない、30年前の風景であることに愕然とする。あの日、質素でも家族で訪れていた避暑地で、彼女は何を見たのか…。
思春期の少年時代の淡い経験と悲しく傷ましい結末の記憶が、夢のような瑞々しい風景に描かれる「隠れ鬼」。
共働きの両親が帰ってくるまでの間、内緒で妹と河原に出かけ、”虫取り”の時間を楽しんでした兄妹。その河原で出会ったホームレスとの間に起こったある出来事のため、ふたりはそのホームレスのテントに大きな石を落とす。数日後、ふたたび河原に訪れたふたりを待っていたものは…。
印章店の傍の公園で遊んでいた少年の情景から始まる、友達もなく、ふたりで寄り添っている兄妹の危うげながら強い絆が、哀しい傷をもたらしてしまう「虫送り」。
河原に住む昆虫に詳しいホームレス。少年時代にほのかな恋心を持っていた同級生の少女が抱える非情な環境を知った時、彼はそこから彼女を救いたくて、ふたりの暗黙の約束を破る。しかしその結果は、痛々しい現実を閉じ込めて、かろうじて生きていた彼女の感情をあふれさせ、大きな悲劇を招く。現実の過酷さと自分の非力に打ちのめされた彼は、その後好きな昆虫の世界に自身を閉じ込めた…。
河原に住むもうひとりのホームレスの追憶という形で、少年と少女の淡い恋のほの温かさと脆さが、痛ましい現実に打ちのめされた男の末路に象徴される「冬の蝶」。
父の容赦ないひとことで、耳が聞こえなくなった孫娘と別れてきた娘と暮らしだした老人の家に空き巣が入る。なけなしの貯金を奪われた、その犯人を知っているような発言をする幼女の本当の心を知った隣人の“わたし”。空き巣を少女は見ていたのか…?この家族の行く末は…?
「冬の蝶」の少女が”私”となって自身の過去を思い出しながら、”家族”の形、その愛情のあり方を思い返す「春の蝶」。
運送業で生活している若者の姉が突然入院した。ただのポリープといいながら痩せていく彼女を心配して見舞いに訪れる彼は、早くに死んだ彼の父、その病院に姉とふたりで通った過去を想い出していく。父の死をきっかけに母と不和になり、断絶状態にある自身の甘えを、姉の入院を機に見つめ直していく彼が見つけたものは…。
「春の蝶」の少女を危うく轢きそうになったトラックの運転手から紡がれる、シスコンの青年の精神的な成長を、懐かしい童謡の調べと水彩画のような情景で描かれた「風媒花」。
「女の先生」に憧れて教師を志し、初めて担任したクラスの子どもに訪れた母の再婚の話。おとなしく、勉強もできる少女が突然起こした子猫虐待の事件に対応しているうちに、そこに秘められた、子どもの複雑な環境と、それにともなう悲痛な不安とを見出した彼女は、自分に足りなかったものを取り戻す…。
「風媒花」の退院した姉の、明瞭にならないやりがいのなさと目標の喪失が、感受性の強い担当の少女との交流によって鮮やかによみがえる「遠い光」。
6篇のちいさなエピソードが、そこに登場するいずれかの人物によって繋がっていく連作集。
オムニバス映画を見ているような、そのリンクの仕方は上手く、3話目あたりからは、次はどこが切り取られて展開していくのかを楽しみに、1篇1篇を追うようになる。
前半3章は、ミステリ的要素が強く、結末も痛々しく悲しいもので、後半3章はまるで前半の傷を癒すように、哀しさを帯びつつも優しい光へと昇華していく。ちらちらと現われる白い蝶が幻夢へと誘いながら。
そして、最後の「遠い光」では、ふたたび1話目の「隠れ鬼」の母子へと回帰して、小学生の女の子のひと言に救われる印章店の主人が描かれ、全体として読後の印象を柔らかい救済へと持っていく。
完全な環に完結したところは実にみごとで、にくい造りだ。
また、それぞれの情景が、水彩画か印象派の画のような、キラキラとしてそれでいてどこか霞がかかったような淡い色彩をもって、静かに、瑞々しく描写される。
その透明感のある、はかなげな印象は、タイトルにぴったりで、喪ったものを思いだすような切なさを感じさせて好ましい。
生きるために、大切なものを守るために、救うために、秘められた想いや行動が生む、人間の光を紡ぎ出した6篇の水彩。
どのストーリーもどこかに謎やオチを含み、そこに向けて進んでいくのだが(基本的にこの謎やオチはどれもすぐに分かる軽さで凝ってはいない)、後半になるにつれて、造りに腐心するせいか、登場人物の心理や思いの流れが鈍化して、話そのものが陳腐になっていく。
「風媒花」では、姉の病状がややわざとらしいし、「遠い光」については、あまりに主人公の女教師の感覚が鈍く、無理やり結末を遠回しにしている印象が否めないのが残念。
作品としては、前半3章の悲劇を主体としているものの出来がよい。
それは、救済があってもなお、個々の消せない罪とそこについてまわる苦しみが残る“傷”だからかもしれない。
特に序章ともいえる「隠れ鬼」の、人間の情念の怖さと哀しさを浮かび上がらせているものが、短編の造りとしても、最終章での登場の仕方を含めても意味深く、秀逸かと。
個人的な好みが多分にあるが、救いのなさの底に流れる人間の優しさと哀しさを徹底した作品を読みたい作家。
最近の芥川・直木の両賞は、よい作品の次作に与えられることが多いのだけれど(後づけ…?)、『月と蟹』(やはり彼のタイトルはいつでもよい)は、期待できるかな。
タイトルの持つ美しく優しいニュアンスに惹かれて積読していたら、新作で直木賞の受賞となった。
受賞作の前に読了をと。
父の残した印章店を営む中年男性。店の奥では認知症を患った母が無邪気に絵を描いている。ようやく介護にも慣れ、母を抱えての静かな生活を送ることができるようになっていたこの日、ふと母の描く絵が、彼女が決して知るはずのない、30年前の風景であることに愕然とする。あの日、質素でも家族で訪れていた避暑地で、彼女は何を見たのか…。
思春期の少年時代の淡い経験と悲しく傷ましい結末の記憶が、夢のような瑞々しい風景に描かれる「隠れ鬼」。
共働きの両親が帰ってくるまでの間、内緒で妹と河原に出かけ、”虫取り”の時間を楽しんでした兄妹。その河原で出会ったホームレスとの間に起こったある出来事のため、ふたりはそのホームレスのテントに大きな石を落とす。数日後、ふたたび河原に訪れたふたりを待っていたものは…。
印章店の傍の公園で遊んでいた少年の情景から始まる、友達もなく、ふたりで寄り添っている兄妹の危うげながら強い絆が、哀しい傷をもたらしてしまう「虫送り」。
河原に住む昆虫に詳しいホームレス。少年時代にほのかな恋心を持っていた同級生の少女が抱える非情な環境を知った時、彼はそこから彼女を救いたくて、ふたりの暗黙の約束を破る。しかしその結果は、痛々しい現実を閉じ込めて、かろうじて生きていた彼女の感情をあふれさせ、大きな悲劇を招く。現実の過酷さと自分の非力に打ちのめされた彼は、その後好きな昆虫の世界に自身を閉じ込めた…。
河原に住むもうひとりのホームレスの追憶という形で、少年と少女の淡い恋のほの温かさと脆さが、痛ましい現実に打ちのめされた男の末路に象徴される「冬の蝶」。
父の容赦ないひとことで、耳が聞こえなくなった孫娘と別れてきた娘と暮らしだした老人の家に空き巣が入る。なけなしの貯金を奪われた、その犯人を知っているような発言をする幼女の本当の心を知った隣人の“わたし”。空き巣を少女は見ていたのか…?この家族の行く末は…?
「冬の蝶」の少女が”私”となって自身の過去を思い出しながら、”家族”の形、その愛情のあり方を思い返す「春の蝶」。
運送業で生活している若者の姉が突然入院した。ただのポリープといいながら痩せていく彼女を心配して見舞いに訪れる彼は、早くに死んだ彼の父、その病院に姉とふたりで通った過去を想い出していく。父の死をきっかけに母と不和になり、断絶状態にある自身の甘えを、姉の入院を機に見つめ直していく彼が見つけたものは…。
「春の蝶」の少女を危うく轢きそうになったトラックの運転手から紡がれる、シスコンの青年の精神的な成長を、懐かしい童謡の調べと水彩画のような情景で描かれた「風媒花」。
「女の先生」に憧れて教師を志し、初めて担任したクラスの子どもに訪れた母の再婚の話。おとなしく、勉強もできる少女が突然起こした子猫虐待の事件に対応しているうちに、そこに秘められた、子どもの複雑な環境と、それにともなう悲痛な不安とを見出した彼女は、自分に足りなかったものを取り戻す…。
「風媒花」の退院した姉の、明瞭にならないやりがいのなさと目標の喪失が、感受性の強い担当の少女との交流によって鮮やかによみがえる「遠い光」。
6篇のちいさなエピソードが、そこに登場するいずれかの人物によって繋がっていく連作集。
オムニバス映画を見ているような、そのリンクの仕方は上手く、3話目あたりからは、次はどこが切り取られて展開していくのかを楽しみに、1篇1篇を追うようになる。
前半3章は、ミステリ的要素が強く、結末も痛々しく悲しいもので、後半3章はまるで前半の傷を癒すように、哀しさを帯びつつも優しい光へと昇華していく。ちらちらと現われる白い蝶が幻夢へと誘いながら。
そして、最後の「遠い光」では、ふたたび1話目の「隠れ鬼」の母子へと回帰して、小学生の女の子のひと言に救われる印章店の主人が描かれ、全体として読後の印象を柔らかい救済へと持っていく。
完全な環に完結したところは実にみごとで、にくい造りだ。
また、それぞれの情景が、水彩画か印象派の画のような、キラキラとしてそれでいてどこか霞がかかったような淡い色彩をもって、静かに、瑞々しく描写される。
その透明感のある、はかなげな印象は、タイトルにぴったりで、喪ったものを思いだすような切なさを感じさせて好ましい。
生きるために、大切なものを守るために、救うために、秘められた想いや行動が生む、人間の光を紡ぎ出した6篇の水彩。
どのストーリーもどこかに謎やオチを含み、そこに向けて進んでいくのだが(基本的にこの謎やオチはどれもすぐに分かる軽さで凝ってはいない)、後半になるにつれて、造りに腐心するせいか、登場人物の心理や思いの流れが鈍化して、話そのものが陳腐になっていく。
「風媒花」では、姉の病状がややわざとらしいし、「遠い光」については、あまりに主人公の女教師の感覚が鈍く、無理やり結末を遠回しにしている印象が否めないのが残念。
作品としては、前半3章の悲劇を主体としているものの出来がよい。
それは、救済があってもなお、個々の消せない罪とそこについてまわる苦しみが残る“傷”だからかもしれない。
特に序章ともいえる「隠れ鬼」の、人間の情念の怖さと哀しさを浮かび上がらせているものが、短編の造りとしても、最終章での登場の仕方を含めても意味深く、秀逸かと。
個人的な好みが多分にあるが、救いのなさの底に流れる人間の優しさと哀しさを徹底した作品を読みたい作家。
最近の芥川・直木の両賞は、よい作品の次作に与えられることが多いのだけれど(後づけ…?)、『月と蟹』(やはり彼のタイトルはいつでもよい)は、期待できるかな。
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