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記号的人物の妄想の顛末が持つリアル ―『ニッポニアニッポン』―

『ニッポニアニッポン』 阿部 和重 (新潮文庫)
 

 トキの学名をタイトルに持つことに興味がわいて。
 同じタイトルでは、杉浦日向子氏のマンガに、江戸と明治の過渡期を描いたすばらしい作品があるが。

 『インディヴィジュアル・プロジェクション』で、現代の若者の閉塞感と虚無とを、一歩引いたところから描いて見せた安部氏が、トキをネタに何を見せてくれるか。

 佐渡にある日本トキ保護センターを襲撃、そこに捕らわれているトキを解放するのだ。その選択肢は「飼育」「解放」「密殺」の3つ―――。
 自らの苗字に「鴇」の字を持つことから、トキへの親近感を持った鴇谷(とうや)春夫は、日本のトキの絶滅を迎えていながらも、中国のトキを借り受け(あるいは譲り受け)ることで、保護増進計画に沸く現在の騒ぎに、醒めた視線と、その欺瞞に憤りをもち、そんな計画を夢想する。
 やがて夢想は実行計画へと膨らんでいき、春夫はスタンガンや手錠、催涙スプレーなどを入手、運転免許を取得して、佐渡トキ保護センターへと向かう…。

 故郷山形にいられなくなり、東京で独り暮らしをする春夫は17歳。高校を中退、働くこともせず、親に仕送りをさせて、一日自宅でネットサーフィンをする彼は、いわゆる引きこもり少年だ。
 故郷を追われたのは、高校にも通わずに追い続けいた同級生の本木桜へのストーカー行為が過ぎ、とうとう警察沙汰になって、その地にいられなくなったせいだった。

 人との間合いを計れず、勝手な饒舌と強い自己顕示欲によって孤立しながらも、いつかはすべてが自分にとってよい環境になると根拠なく信じていた彼にとって、大好きな桜に会うこともできず独り東京に追いやられたこの状況は、いわば初めての挫折であるが、自身を省みることもなく、まったくの不本意な仕打ちとして、故郷を憎み、親を恨み、鬱憤をためていく。
 
 日々の無為な生活の中、ネットから情報を得ることで、人間の身勝手に翻弄されるトキの状況に己を重ねていく春夫は、やがて現状打開のひとつの契機として、妄想に近い英雄譚のヒーローとして、トキの解放をそのミッションとして熱中していくことになる。
「ニッポニア・ニッポン問題の最終解決」と名付けられたそのシナリオは、トキの持つ学名に象徴されるように、現代日本の革命としての意味も併せもって春夫を魅了する。

 鴇谷のトキ保護政策に関する情報はいずれも、私たちが検索しても同じ情報を得られるネットからのものであり、その転記ともいえる内容箇所は、物語の“リアル”を補強する。そしてそれらを自身で消化、把握した春夫の感想や批判は、ある視点においては非常に理路整然としており、ひとつの説得力ある意見表明となっている。
 中国からトキを輸入してまで増加させようとしながら、一方で“血統”にこだわる世論の存在は、「ニッポニア・ニッポン」という“日本”を名に冠することを守ろうとしている印象が強く、同時に現在の保護育成政策と騒ぎ方には、絶滅種を保護するという主張が持つ、否定することの難しい“正義”と、人間の傲慢の共存があり、さらには日本人の身勝手さも感じられて、個人的には彼の批判に同感だったりもする。
 そしてそこからトキを解放するのだという論理展開も、理解できなくはない。

 しかしながら、その計画のための準備においては、ネット通販で武器を購入、自宅へ配送させるなど、考えているようでありながら、あまりにも世間知らずで、危なっかしいことこの上ない。
 この方や早熟な論理立てと、方や無邪気な幼稚さの共存が、若者の自意識と未熟さというアンバランスさを非常に効果的に浮かび上がらせ、その結末の破綻を予感させる。
 予感に違わず、彼の犯行はトキを逃すことまでは果たしながらも、計画からは程遠く不幸でお粗末な結果に帰結する。
 
 その帰結は、それを“事件”として見る側にとっては犯人の言動が理解と共感を超えたものに映る点で、そこまでの惨劇ではないものの、いまなお傷ましい記憶として残る「秋葉原通り魔事件」の若者の姿を彷彿とさせる。 

 春夫の設定はありがちな若者の姿で、特に新しいものではない。引きこもり、妄想型、独善的、そして世の中に認められない自分の鬱屈を、社会や他人のせいにして、やがて自身を英雄へと導いていく妄想とリアルの境界線が曖昧になっていく過程はひとつのパターン/キャラクターとして描かれる。

 若者の理想と鬱屈、ある意味での潔癖の悲劇の物語というコードで読むと、三島『金閣寺』の系譜とも捉えられるが、その完成度で比べてしまうと、遥かに及ばない。
 ただ、この作品は、その記述のドライな形式にも現われているように、そうした抒情的な要素を敢えて排除したところに面白さがある。

 ネットというバーチャル、そこに掲載される現実の情報、春夫の論理的思考と妄想的想像、計画的かつ衝動的行動、それらが等価に並列され重なっていく経過が、その記号的な設定の中、阿部氏らしい軽やかさとアイロニカルな滑稽さを持つ淡々とした叙述となって読者を引き込んでいく。

      「いまや阿部が信ずるのは形式であり、論理だけである。
      ある形式を論理的に徹底するところから、導き出されるい
      びつな「妄想」。複数の妄想が関係を結びあい、妄想の複
      雑系が繁茂しはじめる。このとき阿部はあきらかに、妄想
      のひとつの本質を独自に看破している。そう、ほんらい妄想
      とは、論理的徹底性の産物なのだ。臨床的にもパラノイア
      が治りにくいのは、彼がわれわれ以上に、厳密に論理的な
      考え方をするためだ」


 と、解説で斎藤環氏が述べるように、その「論理」の徹底的な追及から、妄想とリアルのラインの無化が生みだすひとつの「現象」として著わしたところに醍醐味がある。
 そして読者はその「現象」を追う形で入り込む。このため、読後の印象がとても言葉として捉えにくいのだが、読んでいる間は、主人公の心理的なものには突き放されながら、それでいてその世界に引き込まれているという、ちょっと不思議な感覚を味わえる。

 春夫の計画実行後の顛末は、英文そのままにクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞が挿入され、春夫のはじめてといえる“外部を見つめる視点”で閉じられる。その歌詞の意味とともに、彼の「現実」が揺らぐ終わりはとてもよい。
(そういえば『インディヴィジュアル・プロジェクション』でも音楽がとてもさりげないけれど重要な小道具として使われている)

 さらに付与されたエピローグは、物語でネット上にコメントだけで登場する人間が、具体的な身体を持って現われ、もうひとりの“春夫予備軍”の予感を残すように構成されているが、これは蛇足かな、と。
 阿部氏の持つ「軽さ」というか、微妙な「ずらし」としては敢えての意図なのだろうと思いつつも、このエピローグはない方が、物語の終焉としては余韻があったのではないかとちょっと残念。

 なお、同じく斎藤氏の解説によると、表紙のデザインはクイーンのアルバムのパロディになっているらしく(どこかで見たことがあるような…と思ったものの、クイーンは大好きだが各アルバムとして認識していなかった;汗)、また春夫に関わるふたりの女の子の名前も、よく知られたアニメの主人公の名をもじったものだとか(これも言われてなるほど、確かに…)。
 このあたりのパロデイを、作品を手に取った時にすぐさま感知できる読者にとっては、その記号的な「遊び」の部分が持つ意味がもっと重層的になって、よりたまらない魅力になるのだろうと思う。

 平面的で表層的な妄想の疾走が生みだす“リアリティ”。サブカルチャー世代の重さと軽さのリミックス作品。


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