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「読む」ことの狂気と悦楽。「文学」の力 ―『切りとれ、あの祈る手を』―

『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』佐々木 中(河出書房新社)

 
 『夜戦と永遠』のタイトルが気になっていた佐々木中氏。バリバリの思想系に臆していたところに、ややとっつきやすそうな(笑)、そしてこれまた意味深なタイトルと美しい朱の装丁の一冊が出たので。
 あまりに熱くてんこ盛りなので、うまくまとまらないのだけれど。

 突然に(と思われた)現われた先の著作と現在追求している思索との間で語られる、10時間におよぶ編集者とのインタビューの記録という体裁。

 所々に散りばめられる現代思想界への批判の鋭い舌鋒、たたみかけるように繋がっていく論理展開、その怜悧な情熱が熱く語るのは、「読むこと」そして「文学」が持つ力だ。

 「読む」ことの狂気と孤独、「読まなければならない」ことの恐怖や苦痛、それゆえの悦楽と熱狂、そしてそのテクストを読み換え、書き、書き換え、語り、歌い、踊ること―――ヨーロッパを起源とする過去の思想家の原動力を、広義の「文学」に求め、そこから欧米の6つの“革命”といわれる歴史上の変革を読みとることで、暴力や制度に先行する「文学」がもたらす“革命”の力を、その小さいけれど絶対的な可能性を抉りだしていく。

 第一夜:文学の勝利

 この5夜の導入として、著者が学生時代から現在に至るまでに、教育機関としての大学で感じた違和感を発端に、これから述べる「文学」を定義する。
 ショーペンハウアー、ニーチェ、言語学の権威グリューンヴェーデルからヴァージナ・ウルフまでを引用して、「本を読むこと」の意味を追求していく。
 現代教育が育成する「批評家」と「専門家」の全体主義的幻想性を暴き、読むことへの純粋な回帰を訴える。しかし、そこには読むことについての不可能性が常に前提とされている。
 読んでも分からないことに、知的序列を感じる読者に対し入門書や解説書が出されている事情を「搾取」として切り捨て、分からないことをそもそもとして、本が、テクストが持つ恐怖にもつながる深淵なる力を示唆する。

 狂気を覚悟で読み、受け取り、書くこと、そして原始から継がれてきた根源的な身体機能としての歌うこと、踊ること、すなわち「藝術」へと拡げられていった先に「革命」があったことを、そうした読む狂気に自らを駆り立てた思想家を追っていく予告といえるか。

 分からないことを分からないと言え、広く知ること、深く知ることよりも、自身に訴えかけてくるテキストの声をどこまで追求し、思考し、言語化していくか、ということが「読む」作業だという、厳しくもシンプルな言葉は、ちょっと勇気を与えてくれる。(とはいえそもそもの頭の造りと読込のレベルが違っているような気がするが…;笑)

 第二夜:ルター、文学者ゆえに革命家

 欧米の革命として大きく6つを挙げ、そのうちの(時系列上の)2つ目、いわゆる「宗教改革」と日本では言われる「大革命」を、その中心人物であったルターがなぜこうした言動に達したのか、聖書を読んで読んで、読み続け、そして書き続けたことに求め、革命が文学的なのではなく、文学こそが革命であり、暴力は二次的な派生物なのだと断ずる一夜。

 このところ、キリスト教に関する書物が多く発行され、日本でもひとつのブームになっているようだが、基本的に欧米の歴史を、キリスト教の理解がないと、文化も政治も人々の思考形態も分かりにくいことが多いのは事実である。
 それは、ギリシャ文明を除き、彼らの地で初めての共通の“物語”が聖書であり、成文化されたのが聖書であったことによる。聖書による、キリスト教による宗教的支配が、国家を形成し、政治体制を作り、法体制を整え、生活の形を定めたということだ。それは、大きく独特の形態をとりながらも、近代化として欧米のシステムを導入した日本においても、読み取りの重要な要素となっているだろう。

 そのキリスト教の持つ社会への汎用性を視野に、ルターの思考と変革の行動、そして時代の印刷技術向上の幸運が重なったとしても、膨大といえる著作とその普及により、大きな意識と社会体制の変革をもたらしたことを検証する一夜は、カトリックとプロテスタントという、宗教的対立にとどまらない、この“革命”の大きな意味を改めて認識させてくれる。

 第三夜:読め、母なる文盲の孤児よ―ムハンマドとハティージャの革命

 第二夜を受けて、その後のカトリックによる対抗宗教改革に触れ、どちらがよくてどちらが悪いという二元論での判断に警告を発しつつ、そこから生まれた法制度の改革や優れた学者の輩出を示唆し、フーコー、ラカン、そしてT・S・エリオット、パウル・ツェランら、神秘主義に影響を受けた思想家、詩人などへと言及、「神秘主義」という言葉に日本人がイメージしがちな胡散臭さの払拭を訴える。
 そして欧米ではない革命の例として、イスラームを定礎したと言われるムハンマドの足跡を追っていく。孤児で文盲だった彼が、天使ジブリールによって5回も拒否したにも関わらず、「読むこと」を強要され、主の元に命ぜられた奇跡と、その後の迫害の歴史、それを助けた彼の妻ハティージャとその娘たちの伝説(?)を引きながらクルアーンを書いた(著者いわく「孕んだ」)ことで、イスラーム文化が、つまりは革命が起こされたことを示す。
 
 読めない者が読む、この「読むこと」の熱狂が、すべての暴力に先行していたこと、そして西洋でいわれる「父殺し」の系譜にムハンマドが当たらない指摘から、流血先行の革命の歴史に異議を唱える。
 現在のテロを主体とする原理主義は実はテキストに根拠をおかない無原理主義であると批判、オウム真理教が起こした事件や、ヒトラーがナチスにおいて実行しようとしていた破壊と暴力の機構を、自身の死と世界の死を一致させたいという、人間の愚かな欲望・幻想として徹底的に否定する。

 ムハンマドの生涯を追うところは、聖人の物語を読んでいるような楽しさがある。また著者のフェミニスト的な考えもより強く感じられる一章だ。
 そして世界の滅亡と自身の終焉の一致を希求する人間の傲慢と愚かさを、物語が永遠に続くことを象徴的に表したベケットの『ゴドーを待ちながら』を最後に引用したところは、圧倒的な個人の無力を冷徹に突きつけると同時に、その個人が生みだすことのできる文学が持っている、未来への、先へと進むとことへの強い希望を訴えかけてくる。

 第四夜:われわれには見える―中世解釈者革命を超えて
 
 予告していたヨーロッパにおける、以降の革命を決定的に方向づけたと著者が考える、12世紀の「中世解釈者革命」について述べる一夜。
 教皇と神聖ローマ皇帝との叙任権闘争の端著としての教皇革命と、ローマ法大全の発見とその「読解」による法体系の整理と書き換えによる「新たなる法」の成立の意義を追っていく。
 あくまでもキリスト教社会全体を統括する法として、それは宗教についてのみならず、生活や教育、婚姻や商法に至るまで、「集成(コルプス)」として成立したこの法制度は、近代法制度にまでおよび大きな影響力をもたらし、現在所与のものとして私たちが共有している“法”の認識の原型が形成されたのがこの時だということを明らかにする。
 それは同時にローマ法大全を徹底的に読み、まとめ、加筆修正を繰り返して作成したものが、最初の「データベース」であり、つまりは、12世紀にすでに情報技術革命がなされていたことを指摘する。
 そして著者はそこから、情報化されることでテクストは徹底的に効率化され、法や規範や政治が、情報か暴力かの二者択一の袋小路に陥ったのではないかと思索している。
 さらには情報と暴力に溺れる現代社会では、文学―藝術が法や規範から無関係な場所へ追いやられ、窒息しかかっている、と。
 しかしそれでも生き延びている藝術や文学は、政治権力が抑圧の歴史を繰り返してきたように、絶対に消えず、むしろその力ゆえにこそ切り離されてきた事実をもう一度冷静に見つめ、ヨーロッパ的な二元論や「法」「暴力」「主権」の三位一体を無効化したところから、一歩「横に」踏み出すことを強く訴える。この中世改革者革命を人間がなしたように、やり直せないはずはない、と。

 やや思索の途中であることを感じさせる脱線により、取り上げている革命の形を捉えにくい一章ではあったが、現在普通に「法」として意識しているものはいつ、何を根拠に生まれたのか、そうした根本的な疑義から始まり、その法体系と情報化の成立を12世紀ヨーロッパに見る視点は刺激的だ。
 そして「読むこと」により整理された法によってはじき出されてきた「読むこと」(藝術)の姿を浮き彫りにする皮肉な相は、為政者が全体主義の推進にあたり、いかに文化を、書物を恐れ抑圧してきたかという、よくいわれる文化の持つ力についての論と一緒になった時、痛いまでの希望と可能性の叫びとなっている。

 第五夜:そして三八〇万年の永遠

 最終夜のまとめとして、さまざまな数値を挙げながら、文学の可能性を強調する一章。
 ミレニアムの1000年、各時代の各国の識字率とそこでの出版事情、さらには人類の発生時期、文字の発明からの年代、発掘された最古のアクセサリーの制作年代、生物種の平均年齢など、それらの統計数字から、仮に想定しても、過去の文学者たちは0.1%の可能性に賭けて勝利し、その作品を永遠なるものとして残してきたこと、そして人類が滅びるまでに三八〇万年が残っていることを指摘して、その永遠に賭けようとの呼びかけで閉じている。

 あくまでも統計上の、そして数字のロジックであることを著者自身も指摘しているが、やや牽強付会な感もありながら、そこで痛切にメッセージしているのは、ニヒリスティックに斜に構えることも、絶望に陥ることももうやめて、小さな可能性でも「文学」に可能性を見いだし、それを信じて一歩を踏み出そう、文学には狂気にまで通ずる力が内在しているのだから、という文学讃であり、私たちへの叱咤だ。

 正直読後の評価が分かれる著作だろう。

 「文学が終わったと言いながら大学にとどまっている文学者は辞めるべき」、「ポストモダンを標榜して過去を否定する幼稚な態度はやめるべき」となど、現代思想界への攻撃は、言葉とともに手厳しい。
 その主張に一貫したものを持ちながら、またひとつの説得力を持ちながら、あまりに繰り返されるあまりスマートでなはい、直截な批判の言葉は、行きすぎると批判を通り越して、誹謗に堕する感がなくもなく、読みぐるしいと思う人もあるだろう。
 そうなってしまうと、せっかくの論理が個人の怨唆のように捕えられてしまいはしないか、と、門外漢できちんと思想の潮流を学んでもいない私などには、彼の主張がひとつのスタンスとして、主張として在るべきだと楽しんだだけに、懸念された。

 また、次作のための思索途中であることは分かっていながらも、欧米の6つの革命を挙げながら、2つにしか言及していないのもやや残念であり、また論理の飛び方や粗さが目立つところもある。
 まあ、あくまでもインタビューの記録、ということで、この辺りは許容せざるを得ないか。

 しかしそうした“毒舌”や“粗さ”は措いたとしても、氏の論は、とても切なく、苦しく、そして熱い希望をもって、私たちに訴えかける。

 もちろん、氏のいうような「文学」との狂うばかりの接し方などできているはずもないし、資本主義社会にどっぷりと浸かり、いまその限界に接しながらも、日々を醒めた風に漫然と過ごしている自分にとっては、耳痛いこともあり、多くの人にとっては理想論とも捕えかねないかもしれないが、文学を、そして藝術を愛し、その思いを言語化することへの困難と、読み取りの不可能性に歯がみする想いを持ちながらも、読むことを止められない人間にとっては、とても刺激的で、嬉しい激励の一冊だ。
 
 できれば新作が上梓される前に、『夜戦と永遠』読んでおきたいところ。ちくま文庫から「完本」も出たことだし。


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テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

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