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創作の「企み」に切り込む醍醐味 ―『パウル・クレー ― おわらないアトリエ展』―

『パウル・クレー ― おわらないアトリエ展 』 (東京国立近代美術館)


Paul_Klee_Art_in_the_Makingチラシ
 音楽と絵画、いずれにも憎らしいほどに非凡な才能に恵まれたクレー。
 彼が生みだす作品は、その色に、線に、構成に、全体の空気に、常に楽譜や音楽を感じさせる。
 と同時に、さりげなく施された支持体への加工、皮肉をもった対象の描写や、不思議なあるいはステキなタイトル、そして、やがては朽ちていくものとしての作品の“滅び”を視野に入れた制作スタンスなど、知的でニヒリスティックに、そしてある意味では“いじわる”さを持っている点に接した時、お茶目さを湛えた大きな目の写真の中で「ニヤリ」とわらっていそうで、なお悔しい思いを、作品に接した愛おしさと喜びとともに感じる。

 「一筋縄ではいかない」

 油彩にせよ、水彩にせよ、デッサンにせよ、作品たちは出会うたびに、絵本のようで、楽譜のようで、あるいは新聞の戯画のようで、詩的で美しく、ユーモアに富み、謎に満ちた世界に惹きつけられながらも、どこかに警戒心をもって対峙する。
 そのスリリングな対話がますますクレーにのめり込んでいくきっかけになる。本当に大好きな作家だ。

 1911年からその死まで、自身の作品には幼少時代ものも含めて制作年と作品番号が振られ、詳細なリスト管理がなされ、その制作詳細まで残されていたという、マメな性格を見るにつけても、ちょっとこわくて知り合いにはなれないな…(笑)と思いつつも、そのおかげでクレー・センターの創設、そして詳細な作品と創作過程を追っていけるのはとても嬉しい。(息子のフェリックスの尽力も並大抵ではなかったろうな、と)

 たいていのクレー展は、彼の制作年代に沿って作品そのものを楽しむ構成になっているが、このたびの企画展はまさにタイトルに現われるように、“何を描いたのか”、ではなく、“どう描いたのか”、に焦点を当てた、彼の創作の制作過程を追う、これまでにない切り口がとてもよい。作家に寄り添って作品を観る、という非常に親密な空間を演出している。

 油彩の大きな作品はなく、基本的には小さくて繊細な作品たちで構成され、どうしても作品に近寄って観ることになるのもその親密さに寄与しているだろう。もちろん、来日しているのは、ベルンのパウル・クレーセンター所蔵のもの、クオリティも高い。

 会場はここでの常の企画展とは逆のコースをたどり、いつもは出口となっている狭い通路のような空間から入る(確か『RIMPA展』のときと同じ)。章立ても非常にコンセプトにマッチし、しかも分かりやすく、まるで一冊の書物を開いてそこを散策するような趣があり、なかなかにスマート。

 第一室はプロローグ。
 展示される、戯画的なものも含めて1919年に大量に描かれた「自画像」シリーズの幾枚かは、油彩転写の≪思索する芸術家≫≪感じる芸術家≫≪思い量る芸術家≫と、そのタイトルからも、すでにこの全シリーズを並べて観たい欲望にかられる。おなじみの≪素描19/75に基づいて≫もある。導入としてはみごとな演出だ。
 そして今回の趣旨に沿って展示が始められる。

 「01 現在/進行形:アトリエの中の作品たち」

Klee_Atlier_1 「ミュンヘン」「ヴァイマール」「デッサウ」「ベルン」と、クレーが過ごした各地を時系列に追いつつ、そのアトリエや住居に彼が実際に掛けていた自作(制作中も完成作も)を、自身で撮った写真と実物で見せながら、それぞれのアトリエの空気を伝え、どのような環境でクレーが制作にいそしんでいたのかを観ていくことができる。

 「ミュンヘン」では、小品ながら、質の良い油彩作品が並ぶ。中でも≪北の森の神≫は、緑と青の中に複雑に入り混じった色彩が、ドイツの「シュヴァルツヴァルト」を思わせ、同時にややコミカルな人物像にもなっている、神秘的でありながら楽しく美しい作品で、持って帰りたいな、と(笑)。

 彼の作品は観ていればいるほどにその世界へ招きいれられていくので、一枚に佇む時間が長くなる。かつその色彩の妙なるハーモニーはどうしてもカタログや画集では限界があり(でも毎回購入してしまうのだが;笑)、作品としては小さいものが多いので、“お持ち帰り希望”が大量に発生する(汗)。

Klee_1 次いでバウハウスに招聘される「ヴァイマール」「デッサウ」時代への入り口には、“中表紙”のように、ここ近代美術館が所蔵する≪花ひらく木≫(来るたびに観に行くお気に入り)と、まるでそれを拡大して回転させたような≪花ひらいて≫が開かれる。
Klee_2 もうこの組み合わせだけで嬉しくなる。
 矩形に区切られた色面が内側に向かって明るくなっていく。全体として抑えめの色調の中、黄色やピンク、黄緑などの鮮やかなかけらが蕾とほころびかけた花の息吹を感じさせる。微妙に歪みを持つ線が画面にゆるやかな動きを生じさせ、その生命感やリズムを強調する。なんて幸せな空間。

 「ヴァイマール」ではおなじみの≪円の中の魚たち≫が迎えてくれる。こちらもアンダーな色彩の中、水晶体のような球形に泳ぐのは、なんともユーモラスな魚たち。赤、青、オレンジ、紫の、色と魚の形態のバランスが絶妙で思わず顔がほころぶ。
 写真では、バウハウスのアトリエでこの絵の側に隠れるように佇む彼の姿が。そして「デッサウ」ではよりモダンにバウハウスの理念を体現化したようなアトリエに並べられた小品の前に座る彼が見られる。

 「ベルン」時代は、ひとつの彼の特徴である古代の象形文字のような、記号のような黒い線で構成された作品が並ぶ。
Klee_3 子どもの落書きのような≪兵士≫、古い時代の壁画のような≪獣たちが出会う≫、そしてまさにタイトルそのままの≪黒い記号≫…作品そのものが発するリズムや楽しさ、そこにタイトルが加わることでさらに拡がる豊かなイメージ。

Klee_4 ≪山への衝動≫は、画面1/3下に線で描かれた車の音が聞こえてきそうな作品。矢印(これもよく使われるモチーフ)が赤くその衝動を示し、後方の車のてっぺんに飾られた旗の青が、それを援護するかのように後押ししている。上部には連なる山と垣間見える空、そこに生きる木々たちを思わせる黒い線が林立している。一緒に車に乗っていきたくなる。

 また、今回初めて観た作品≪セイレーンの卵≫は、島を思わせる線画に、赤と濃紫の球形、それを抱くセイレーンが色面として描かれたもの。極端に横長の画面に、支持体であるジュートの質感がよく分かる薄塗りで造られたそれは、とても愛おしい。

 そしてこのコーナーの最後にあった油彩作品≪無題(白と黒)≫。何を描いているのかはわからない抽象的な作品だが、黒地に白い色面で構成された画面は、白黒が反転するとその黒い線が活かされ、不思議な文様を浮かび上がらせる。その白い絵の具が敢えて筆跡もはっきりと濃淡を残しているのがさらに味わいを深くしている。渋くてクール、それでいてポエティックな一枚。

 この通路を抜けると、大きな展示会場へ。
 いくつかの独立した壁で仕切り、迷路のように回遊させることで、空間を有効に活用している。この会場ではこれまでにはない大胆な空間構成だ。おかげでやや通路としてはせまい個所もあるが、あまり閉塞感を感じることなく、一回りした後は、散歩をするように好きなところへ戻れる自由度がある。

 ここで彼のアトリエでの試行と作品を、4つのプロセスに分け、その手法や創作で追求したものを、映像に表示された実際の制作方法の説明をつけて見せていく。

 それはまるで子供のための工作教室の課題のようにシンプルで、楽しげで、ものごとの既成に捕らわれない自由さに満ちている。そしてなんと豊かで美しく、詩情と知的遊戯にあふれた作品たちが生み出されたことか。

 以下、そのプロセスに沿って。

 「02 プロセス1 写して/塗って/写して:油彩転写の作品」

 クレーが独自に生み出したと言われる油彩転写。黒い油絵の具を塗った薄い和紙を引き、上から素描を針金でなぞった、このカーボン転写を先取りしたような手法は、言われてみれば単純な製法ながら、残された彼の作品の繊細でふるえるような線、あちこちに残る手や指が擦ったような跡が醸し出す独特の味わいができたことを改めて認識させてくれる。
 実際の素描と転写作品を、あるいは転写作品のバリエーションを並べて観られ、線のどこを残し、どこを消し、そしてできたものにどのような彩色がなされたのかを、過程を追うように見ていくことができるのが刺激的だ。

Klee_5Klee_6 ≪ネックレスをつけカールした髪の裸の夫人≫と≪首を傾げている夫人(オレンジ色と黄色)≫の静と動の対比、≪ドクター・バルトロ1921/5のための素描≫と≪バルトロ:復讐だ、おお!復讐だ!≫の空間の強弱の差異、当館が所蔵する≪ホフマン風メルヘンの情景≫と来日した≪ホフマン風の物語≫、そして元の≪ホフマン風のスケルツォ≫の色彩とタイトルにより生まれるそれぞれのストーリー、≪蛾の踊りのための素描≫と≪蛾の踊り≫の繊細さと色が生みだす詩情のハーモニー、≪上昇≫の2枚が見せるユーモアと無限の空間の奥深さ、≪入り江≫の素描と転写か持つ島のイメージの変容、≪地獄の公園≫のふたつの素描を組み合わせて転写した≪無題≫の不思議な空間構成、挙げていくときりがない。観慣れていたと思っていた作品も、新たな感動を惹き起し、輝きだす。

 「03 プロセス2 切って/回して/貼って:切断・再構成の作品」
 「04 プロセス3 切って/分けて/貼って:切断・分離の作品」


 クレーは完成した作品を敢えて分断し、ときにはそれを回転させたり、左右・上下を逆にして貼り合わせることで、それらに新たなイメージと造形を与えていた。あるいは、分断したものをそれぞれを独立したものとして複数の作品にしていた。
 大胆な切り方をした構図だなとか、あれ?これと似た作品があったな、と思うことはいくつかあったものの、今回それらを実際に並べて(意識して)目にしたのは、これまでにない新鮮な出逢いだった。
 
 組み合わされた、または切り離された作品たちが共に並ぶこの空間は、まるでパズルの断片をつなぎ合わせていくような遊び感覚に満ち、そこから元の画を想像することで、実際にそこにある完成品との違いと、それにより生み出された作品が持つ面白さや空気感を改めて認識させてくれる。出来上がった作品をただ享受するのではなく、その前の段階の作品へと立ち戻る頭の働きを求められるこの鑑賞は、策略に富んでいて、“クレーらしさ”全開だ(笑)。

Klee_7 ≪卵のある≫は、上1/5を切り取って下へ持って行ったもの、≪E.付近の風景(バイエルンにて)≫は、下2/5を数センチ切り離したもの、≪蒸気船が植物園のそばを通り過ぎる≫は、半分に切って、上下をひっくり返したもの(一瞬絵巻のような長いものを2段にしたように見えるが)…秘密の発見のようでとにかく楽しい。

Klee_8 モロッコ時代の作品で色彩の美しい≪カイルアンの眺め≫は、同じくその下部にあった≪カイルアン、門の前で≫と一枚の作品、≪窓辺の少女≫は≪墓地≫とさらにあと3枚の作品とで大きな一作に、まるで水墨画のように黒い筆跡で一気に描いた極端に単純化された人物が細長い画面に収まる、大好きな≪別れを告げて≫は、なんと≪ボイオディアの少女≫と≪後のための目印≫の3枚に分断された一枚絵だった!(どうりで苦しげな細い空間だ;笑)チョークで素描された≪忠誠の誓い≫も≪THの指揮者≫と、赤い色層と黒うて太い線が印象的な≪マネキン≫は≪なおしている≫と組み合わせとなる。

 確かに切断されたことで新しいイメージと空気を生みだす、マジックのような空間。同時にそれぞれに付された、ロマンティックだったり、意味深だったり、シニカルだったりするタイトルを楽しみながら、もしもこれらが元の一枚の作品として残されていたら、クレーはいったいどんなタイトルをつけたことだろうか、と思いを馳せながら廻る。

 「05 プロセス4 おもて/うら/おもて:両面の作品」

 画家によっては、両面に絵が描かれているものや、あるいは作品の下に別の絵が描かれていることが後に分かるものなどがあるが、クレーほどにそれを意識的に、確信的に行った作家はいない。

 透ける素材に敢えて裏面を描いて表面からうっすらと見えるようにしたもの、張り付けてしまったけれど、裏返すとその作品がなんとなく透けて見えるもの、そして描かれたものが時とともにはがれ落ちた時に見えてくるように準備されたもの、それらは、死後に解明されたものも含め、クレーがいかに二次元である“絵画”に3次元、ついには「時間」という4次元の概念を意識的に盛り込んでいたかを表わし、この曲者アーティストの思索の深さと企みの精妙さを思わせる。

Klee_9 白と黒の美しい線画≪海辺にかたちづくられるもの≫は、厚紙にワックステンペラという、支持体も素材も非常に脆く、剥落の危険がある作品。その裏には、無題ながら水彩でカラフルな色面の層が描かれている。今回はその表裏が見られる展示方法となっているが、テンペラの表面がはがれた時、裏面の色彩が浮かび上がってくることから予想されるイメージは、表面の静謐なモノクロームの世界の崩壊を惜しみながらも、この眼にしてみたい切なく魅惑的な時間の経過の誘惑である。

 そして今回何より嬉しかったのが、≪闊歩する人物≫の実物に出逢えたこと!
 スライドや画集(あるいは本の装丁;笑)でしか観たことがないながら大好きな作品。線で記号のように描かれた人物が、まるで扉を出ていくように四角い線を越境して“向こう側”へ(と私には見える)と歩いていくイメージ。その裏面には新聞の切り抜きが浮かび上がっており、そこにとても意味を持つ作品。
 その奥深さを思いながらもドイツ語が読めないのを残念に思ったものだが、今回はきちんとその翻訳を提示してくれている。ミュンヘン分離派へのマスコミの攻撃に対する宣戦布告とも思える活動継続の宣言の一部だ。闊歩する人物は、旧弊な偏見の社会に決別して、新たならる芸術の扉の向こうへ行こうとしているのか。
 この線画のシンプルさがまとう力強さとどこか飄々とした空気、そして新聞のメッセージ、この1点だけでも来たかいがあった。ああ持って帰りたい…!

 SFに出てくる終末の風景を思わせるエアブラシによる赤いグラデーションの中に影をもって立ち並ぶ黒い棒、空にもその反映のように黒い垂直線が舞うシュールレアリスムにも通じる≪沿直≫は、よく見ると裏面に人物の像が横に描かれているのがわかる。額装してあるためその形ははっきりとはしないが、透かして見た時、その重なるイメージから私たちはそれぞれの物語を紡ぎ出すことができるだろう。

 最後は、「06 過去/進行形:“特別クラス”の作品たち」として、彼がそのリストの中でも「特別クラス」として非売品として管理していた作品たちが壁を飾る。

 それは、彼が自身の制作の中で、それぞれにある頂点に達したもの、あるいは自身の創作の過程の中で何かを獲得したもの、愛着の強いものであったのだろう。並べられた作品たちは、群を抜いて完成度が高い。
 
 展示されたものはすべて厚紙を支持体とした作品、初期の水彩、エッチング、油彩風景画から、晩年の糊絵の具による保存の難しい作品まで、構図の妙、描き込みの細やかさ、色彩のバランス、画方のバリエーションは、クレーという画家の縮刷版ともいえるラインナップだ。

Klee_10Klee_11 ≪幻想的なフローラ≫のオルガンの音色のような色彩、≪襲われた場所≫の絵本的な物語性、≪魔法劇場≫の禍々しいまでの魔術性、ひと夜ににじみ出てきた幻夢を現わしたような≪山のカーニヴァル≫、迷宮のような線がキリストとマリア(?)の人物像となった、赤い色が運命を予言する≪ゴルゴダへの序幕≫、暗赤色から群青色の深い襞のつらなりが蠢くような生々しさを持つ≪植物的で不可思議な≫、線と面の構成が美しく、まさにタイトル通りの≪結晶≫、シンプルな線で現わされた子どもの作品のような≪腰かける子ども≫(ブルーがきれい)。

 さらにこれもまた実物を観られて嬉しかった≪嘆き悲しんで≫。
 小さな矩形に覆われた画面の上にひと筆で描かれた悲しむ人物の頭部。矩形は几帳面にひとマスひとマスが色づけられ、その哀しみを細やかに強調する。

 真っ黒な地に糊絵の具で明快に描かれた蕨やぜんまいらしい植物の息吹が力強い≪荘重な発芽≫、そしてまさにやがてその糊絵の具が剥落していくだろうことを感じさせるステンドグラスのようなくっきりした作品≪教会≫で閉じられる。

Klee_Atlier_2 クレーの作品は、時として抽象的な形態のつらなりであったり、色彩の重なりであったりするが、基本的に抽象画家ではない。そこには常に“現実に在るもの”から連想されるイマジネーションというテーマがあり、詩があり、そして音楽がある。

 展示の構成も、作品のセレクトと展示手法も、まるで一冊の書物の中を歩いている印象をもつほど緻密に丁寧に造られている。
 1点1点の魅力はいうまでもないが、クレーの創作の現場を覗いているかのようにその「企み」を感じられる、刺激に満ちた空間ができあがっている。カタログも研究者たちの丁寧な論文が各章ごとに配されて力の入ったものだ。

 “なぜ?”を飛び越して彼の創作の源泉に触れられる、密度の高い貴重な時空を堪能できる。クレー好きには必見といえよう。

 「終わらないアトリエ」、クレーはもういないけれど、作品が語るものは永遠だ。
 そのことを改めて強く思わせてくれる、ゾクゾクするほどに嬉しい、秀逸な展覧会。
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テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

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