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幻想の錬金術師、その源泉を垣間見る歓び ―『七つの夜』―

『七つの夜』 J.L.ボルヘス  野谷 文昭 訳(岩波文庫)

 

 『砂の本』で、本を、書かれたものを、そして生きることを、限りない哀しみとともに激しくそして静かに深く愛している彼の迷路のような短編に魅せられた。

 このところ彼の著作や講演集が手軽な文庫として刊行されている。その中から。(『エアアレフ』が積読に埋まっていて…;汗)

 77歳の著者がブエノスアイレスの劇場で行った7夜の講演をテキストとして著者自らが校閲したもの。

 テーマは、彼の“文字にされたもの”への想いの原点ともいえる「神曲」、創作の大切な要素であったろう「悪夢」、物語ることへの永遠を刻印した「千一夜物語」、世界の多様性を見つめる視点を思わせる「仏教」、何よりも“ことば”の魅力の源泉となった「詩について」、その幻想的で神秘的な作品の陰影に響きを感じる「カバラ」、そして彼自身がその身に受けた運命を力強く語る「盲目について」。
 ボルヘス自身が、「悪くない。さんざん私に付きまとってきたテーマに関して、この本は、そうやら私の遺言書になりそうだ」とまで語った、博覧強記、語学の天才である彼の知性と創造力が濃密なエッセンスとしてまとめられた一冊。
 まさに彼の錬金術のような創作の源泉を、その控えめながら、確固とした情熱で開陳してくれる七夜。

 その語りは、縦横無尽に時空を飛び、さまざまな言語、さまざまな視点、さまざまな引用を以って、私たちを思考の、幻想の、感覚の、ことばのラビリンスへといざなう。

 彼があらゆる文学の頂点にあると位置付ける『神曲』の魅力を、その詩という言葉(文体)の妙、ダンテという作者の創作のスタンス、時代を超えて語られ研究されてきたその歴史、そして何よりもダンテが描いたこの壮大な“物語”のすばらしさを印象に残る登場人物にこと寄せて語る「神曲」。
 
     「この逸話全体を通じて感じられ、また逸話に美徳を与えていると
     思われながら、ダンテが言わないことがあります。ダンテは限りな
     い憐憫を抱きながら二人の恋人の運命を語るのですが、私たちには
     彼がその運命をうらやんでいることが分かるのです。…(中略)…
     彼らは永遠に一緒であり、地獄を共にする。そしてダンテにすれば
     このことは、一種の天国であったにちがいありません。」


 第5曲パオロとフランチェスカの章から、ダンテとベアトリーチェとの関係が持つ悲劇性、そしてこの物語に登場しない“キリスト”の存在を示唆するボルヘスの語りは、次に紹介するユリシーズのエピソードと重なっていく。それはロマンティックな感性に微笑ましいものを感じさせながら、神と人、作者と登場人物という物語を創作したダンテの確信と神曲の核心へと迫り、スリリングですらある。

 ドレの版画集としてしか接していない『神曲』ではあるけれど、アングルの大好きな≪パオロとフランチェスカ≫の作品や、読了したことだけでとりあえずよしとした(汗)ジョイスの『ユリシーズ』を思い出しながらドキドキした。

 『神曲』という壮大な、永遠の水晶体を照射するボルヘスの光は、あらゆる角度から差し込み、あちこちに七色のプリズムを生みだし、これだけで感動の夢を見させてくれる。

 “夢”というものの姿を、各国の語源、心理学や民俗学、自身の見た夢、そして文学の中に現われる夢と列挙していく中で、夢を最古の芸術作品と、悪夢という超自然現象としての「味」というふたつの定義に位置づけて、夢と現の境界線が無化される可能性を示唆して終わる「悪夢」。

 ダンテがウェルギリウスと感じた『神曲』の城に感じた恐怖、ワーズワースが見た『ドン・キホーテ』に関わる悪夢、そこから生きていくことに伴う恐怖と夢に感じる恐怖の違いを挙げながら、茶目っけたっぷりに今が悪夢の地獄なのだとしたら、と幻惑の言葉で閉じるところ、ボルヘスの作品を散策したような気分になる。

 西洋が憧れた東洋の姿として、さまざまに翻訳・編集されてきた『千一夜物語』を、成り立ちと、西洋における受容と変遷から紹介、さらには、その影響を受けて書かれたと考えている文学を挙げながら、そのタイトルが持つ意味やイメージのすばらしさと、永遠の物語としての魅力を披露する「千一夜物語」。

      「『千一夜物語』は死んだものではありません。その本はあまり
      に膨大なので、読み切る必要がない。なぜならそれはすでに私た
      ちの記憶の一部であり、今宵の一部でもあるからです。」


 千に1を加えることによって“終わらない”イメージを喚起するタイトルに、限りない称賛と愛情を注ぎながら、まさに彼の『砂の本』に通ずる、変貌し続けていく、現在をすらそこに連ねていく、「生きた物語」としての姿を鮮やかに浮かび上がらせる。
 その語りの夜のその場に居合わせているような幸福な感情が沸き起こる一篇。

 仏教について、仏教徒の友人の言葉やブッダの生涯を追いながら、その悟りの境地“涅槃(ニルヴァーナ)”とは何かを、西洋人であり仏教徒でないボルヘスの言葉で綴る「仏教」。

 世界で最も普及している宗教として、やや漠然としながらも、最大限の敬意を以って語るボルヘスの“涅槃”は、自我を捨て、行為の影を落とさなくすること、そこから得た自由により救済された私たちは、善悪の二元論を超え、考えることなく善を成し続けられる、消えることない炎のような消滅であり、“私”と関係なく存在し続けるものといえるか。
 思考の停止ではなく、静かなる境地、それは過去はすべてが夢だと考えることでもあり、ボルヘスの作品に通じる。その“救済”が、彼の創作の原点として在ることを強く感じさせる。

 みごとな幻想性を持った散文作家であると同時に、すばらしい詩人であるボルヘスが自身が愛する詩の数々を紹介しながら、言語の美学的創造の力と、表現としての詩、そして予め“在る”ものを見つけ出していく作業としての詩作を語る「詩について」。

      「詩をあまり感に取れない人がいます。そして一般にそういう人
      たちはそれを教えることを仕事としています。私は自分が詩を感
      じ取れると思いますし、それを教えたことはないと思います。
      あれこれの作品に対する愛を教えたことはない。私が学生たちに
      教えてきたのは、いかにして文学を愛するか、いかにして文学の
      中に一種の幸せを見出すかとうことなのです。」


 “定義する必要のない美学的事実”をたよりに教鞭をとり、創作をしてきたボルヘスの美的感覚への誇りと、厳しい批評眼を感じさせる一夜。ひとつの詩をさまざまな国の言語で読み、それぞれの美しさを“感じて”きた彼の信念は、詩とは理屈で考えるものではなく、肉体的感覚、体全体で感じ取るものだということ。

 パウル・ツェラン、萩原朔太郎、谷川俊太郎くらいしか読んでいない自分には、どうやら詩を“感じる”感性はないようだが(汗)、どう読むかではなく、どう感じたかを言語化してくれているこの1篇には、ちょっぴり勇気づけられる。

 言葉の前に文字があった。その神聖なる文字は、人間の創意を超越し、すべては宿命の永遠性を持ったものである。この教義から暗号のような読解法を編み出し、魔術的な聖典を生みだした「カバラ」を、ホメーロスやホラティウス、プルトン、キルケゴールからシュペングラーまで、さまざまな思想とゴーレムの伝説を引用しつつ、その定義を読み解いていく「カバラ」。

 カバラを「博物館の陳列品」として古典鑑賞や研究の対象とするのではなく、思考の暗喩として捉えるボルヘスの視線は、カバラの教義が示す、言葉が持つ神性と、、この世界を創造したのは末端の神であり全能にして公正な神の創造物ではないことを引いて、世界の変革は私たちにかかっていることを訴える。

 文学が持つ力、想像が生みだすエネルギー、言葉が紡ぐ世界の可能性を、怪しく黒いイメージの強いカバラから導き出すその語りは、それ自身が錬金術のように鮮やかだ。

 文学の経験では饒舌なボルヘスは、自身のことはあまり語らない。その彼が自身の盲目と、同じく視力を失った過去の作家たちやその作品を挙げながら、失った世界の代わりに新たな世界を手にした“神の恩寵”であると断言するまでに転化していったその意志を語る最終夜「盲目について」。

       「盲目はひとつの生活様式である、まったく不幸というわけでは
       ない生活様式である。」
       「盲目とは、運命もしくは偶然から私たちが授かる、とても不思
       議な道具の数々のひとつであるにちがいありません。」


 決してその不幸を否定するのではなく、見えなくなる悲しみを抱えてなお、それをある“道具”として強く転化させていくボルヘスの、詩人としての、芸術家としての、静かなる強靭に胸を打たれる。
 
 キリスト教者でもないというボルヘス。
 しかしこの世界にある絶対の“何か”の存在を信じ、運命を信じる。そしてその運命は、人間の意思と情熱でいかようにも変えていけるのだと、言葉の力と創作の想像力を同時に深く信じている。
 そこには善も悪も在り、夢も現実も在り、彼の創作のすべてが永遠の(終わらない)可能性として開かれている。

 編者によるエピローグによると、極端に内気な彼は、大勢の人間を前に語ることをとても嫌っていたという。この講演も前日から非情に神経質になり、自分独りに対して大勢の聴衆を感じる(できれば対話という一対一の形を常に望んでいた)舞台設定に不満をこぼしていたとも。

 自身の著作すら、自宅の自らが認めたものしか並べない書棚には置かなかったほどの謙虚さと厳しさを持ち、一方ではチクリと針を含んだ茶目っけも持っていたボルヘスは、この講演をテクストにするにあたり、単なる講演記録ではなく、別の作品にしたいという意欲から、何度も校閲を繰り返したのだとか。

 そんな彼の世界的文学者とは思えぬ控えめさと、個々の人々に語りかけるスタンスで臨んだテクストとして、毎回「紳士淑女のみなさま」で始まり、「です・ます」調のやわらかい口語体で著わした訳がとてもよい。彼の揺るがない文学への愛と、謙虚さと、美的感覚へのプライド、そして時々笑いを誘うユーモアの感覚がとてもよく出ている。

 引用され、紹介されている歴史、思想、文学、言語、いずれも十全に消化できてはいないけれど、深い知識と鋭敏な感性から自由に飛躍し、鮮やかに着地するその思考の夜伽に翻弄されるのは、ボルヘスの作品に幻惑されると同様の、とまどいとジワジワと染みてくる興奮がないまぜになった歓びを与えてくれる。



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テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

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