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やや冗長、栄光と決裂と転落のサーガⅡ章 ―『ベルセルク 黄金時代篇 Ⅱ ドルドレイ攻略』―

『ベルセルク 黄金時代篇 Ⅱ ドルドレイ攻略』 監督 窪岡俊之


Berserk_2チラシ
 楽しみにしていた『ベルセルク 黄金時代篇』第2弾。
 先の 『I 覇王の卵』で、すっかりグリフィスの王子様ぶりに魅せられた同僚の熱望で、クリアファイル(?)つき前売を買って(!)の鑑賞となる。(当然 “おまけ”は彼女の元へ…笑)

 さて『Ⅰ 覇王の卵』では、友と思っていたグリフィスのきつい一言に打ちのめされ、改めて己と彼との関係を思い、自らの道を模索した始めたガッツ。

 とある戦いで、体調不良のキャスカとふたり崖から転落、多勢の敵に囲まれたガッツは、彼女のグリフィスへの想いを聞いていたため、キャスカを彼の元に戻すべく、独り残って無謀な闘いを繰り広げる。
 取り囲む敵を身の丈以上の大きな刀でなぎ倒しながら、彼は考え続ける。
 グリフィスとは自分にとってどんな存在なのか、また彼にとって自分はどんな存在なのか、そして一晩で100人の敵を斃した伝説を作ることになったその朝、グリフィスと対等であるためには、彼の夢のために存在する「鷹の団」で彼の夢に埋まって生きていてはダメだという結論に達した彼は、団を抜け闘いの旅に出ることを考えるようになっていた。

 一方、ミッドランド国王の信頼を得たグリフィスと鷹の団は、100年になろうとするチューダー王国との戦争の最終決戦として、かつてはミッドランドの要塞であった難攻不落のドルドレイ城砦を攻略することを引き受ける。
 ミッドランドが誇った最強軍団さえも敗北を喫したこの城砦攻略に、自軍鷹の団のわずか5000で臨むと進言したグリフィス。周囲のやっかみと揶揄を受けながらも、敵の裏をかく戦略でみごとドルドレイを攻略、久しぶりに訪れた平和に、国王はもちろん、民衆も賞賛を惜しまず、グリフィスと鷹の団は、その勢いの絶頂を迎えるのだった。

 祝いの舞踏会で、最高位の白竜騎士の称号と隊長格の貴族への昇格が王より宣言された夜、さらなる高みへと登りつめていかんとするグリフィスの姿を見届けて、ガッツは静かに鷹の団を去ろうとする。

 その姿を見たキャスカは、自分の気持ちにもはっきりと気づかぬままガッツを追う。
 鷹の団結成時からの古参の仲間たち(ジュドー、ピピン、リッケルト、コルカス)もやってきて引き留めるが、ガッツの決意は揺るがない。
 そこに美しい瞳に暗い光を宿したグリフィスが立ちふさがる。

 「おまえは俺のものだ。どうしても去るというのなら、あの時と同様に自らの剣で奪い取っていけ。」

 グリフィスを理解し、尊敬し、そして大切に思うようになったガッツが、ふたたび彼の剣にひれ伏すことはなかった。
 ショックを隠し切れず、雪の中に跪くグリフィスを後に、ガッツは振り返ることなく去っていく。こんなことで折れるグリフィスではないと信じて。
 そこにはまた、座り込んだグリフィスを気遣いつつも、去っていくガッツの方が気になるキャスカの姿も残されていた…。 

 その夜、皆が心配して探していたグリフィスの姿は王宮の一角に現れる。
 一目見たときから彼の美しさと上品さに惹かれていたシャルロット王女の寝室…。
 
 あらゆるものを己の夢の実現のために利用し、使い捨てていくことのできる冷徹さを持っていたグリフィスだったが、いつの間にか、ガッツは特別な存在としてその心深くに食い入っていたのだった。
 この衝撃が彼の判断力を狂わせ、自暴自棄な破滅への道へと導いていく。
 
 シャルロットとの密通が露呈し、王の怒りに触れたグリフィスは捕えられ、最も残酷な拷問と幽閉の重犯罪人となる。
 傭兵出から時代の寵児へと躍り上った鷹の団も、わずか数日で反逆者集団の烙印を押され、ミッドランド王国からはお尋ね者として追われる立場に転落した。

 隊長の消息が分からないまま何とか逃げ延びた団員達、暗い地下牢でベヘリットも引きちぎられ、傷だらけで虚ろな目をしたグリフィス、彼らのこの状況をガッツが知る由もなかった――。

 あまりにも分かりやすい展開ながら、処々でグリフィスがガッツに(だけ)見せる笑顔や、キャスカの女としてのかわいらしさが、ガッツの不器用なまでの一途さとやさしさと信頼とリンクする、痛々しい決裂の章だ。
 それはまさにグリフィスとガッツ、そして鷹の団のもっとも楽しく幸せな時期としての「黄金時代」であり、その輝きが大きいゆえになお、転落の急斜が加速する。

 しかしこの劇場版、やたらと戦闘シーンの描写が長いのと、グリフィスとシャルロットの濡れ場が(不要に)綿密すぎて、話が大きく端折られている割に冗長な感が否めなかった…。

 確かに『Ⅰ 覇王の卵』篇では、その戦闘シーンの造りがCGの使い方やカメラワーク(風)の工夫で迫力がありかっこよかった。評判がよかったとも聞いている。そのため今回はもっとがんばっちゃったのか、ちょっとくどいな、と。今回のカメラアングル(風)では、画面に飛び散る“血しぶき”が注目だったようだが、繰り返しが多いし、俯瞰や鳥瞰などの展開は少なくて、飽きてくる。

 また、シャルロットとのベッド・シーン、原作ですら(およびTVアニメ版ですら)それほど長い情景としては描かれていないのに、まるでアダルト並みの描写と尺だ。グリフィスの表情のアップに見る絶望と投げやりな感じはともかく、ここまで必要か??

 一応PG12指定となっているらしいが、『Ⅰ』が未指定だったことを考えると、これはひどいし「いいのか?それで。」と。
 このままだと『Ⅲ章』はもっと観られない子が増えてしまうぞ…!
 
 原作ファンとしては、これら部分をもう少し短くして、ガッツと団員たちとの交流や、キャスカの心の動きの方を丁寧に描いてほしかった。
 (TV版では出てくる女王のグリフィス暗殺計画、つまりはシャルロットの母の存在(その後の王のシャルロットへの執着にとても大きな意味を持っていることにつながる)がすべて削除されているのは渋々譲るとしても…)

 さらに本作品では、CG製作のシーンが前作よりも多かった気がする。
 立体感などはよく出るのだが、どうも人間の動きがゲームのようなぎこちなさを伴うので、できれば普通にセル画にしてほしかったな、と。観ていて酔った感じになるのもちときつかった。

 ゾッドも出てこないし(泣)、戦闘&エロに終始した感のあるインターバル。
 やや残念な出来だったが、まあ相変わらず画面は美しいので、異常な世界へと突入する最終章のクリエイティブに期待しようか。

 そういえば、次回の予告への入り方も唐突だった…(途中まで本編の続きだと思って観ていた;笑)。
 「冬」としか告知されていなかったが、年内に観られるだろうか…。

 そして、どうやら番外編が連載されているらしい原作、「終わらないかも…」との作者自身のコメントがあるくらいなのだから、頼むから本編を進めてほしい……!

テーマ : 映画レビュー
ジャンル : 映画

美しくて残酷、繊細で壮大な“夜の”ファンタジー ―『夜の写本師』/『魔道師の月』―

『夜の写本師』
『魔道師の月』 乾石 智子 (東京創元社)



 なかなかに骨太なファンタジーに出逢えてご機嫌♪
 飾っておきたいくらい繊細なカバーイラストと美しいタイトル。
 各冊でも十分にいちコラムとして語れるが、一応シリーズとなっているので一緒に。

 中東からヨーロッパを思わせる、いまだキリスト教の誕生も普及もなく、人々が「自然」と「言葉」と「思い」に宿る力を信じ、魔術とともに生活していた世界。

 右手に月石、左手に黒曜石、口に真珠を携えて生まれたカリュドウ。その不思議な出生のため、魔女であったエイリャに育てられるが、自身には魔道師としての才能がなく、共に育った魔道師候補の少女フィンを守る役割を受け入れるも、女の魔道師の存在を許さない国家最高権力者とである大魔道師アンジストにより二人を目の前で惨殺される。
 独り残されたカリュドウはアンジストへの復讐を決意、他の魔道師を殺害してはその能力を己のものとして強力になっていったこの大魔術師に勝つために、魔法とは異なる力を得るべく、街を出て“夜の写本師”としての修業を積む旅に出ることになる。
 ここからカリュドウの運命は、さすらう土地だけでなく、数千年の時空を超え、3つの石に込められた深い悲しみと憎しみと恨みの記憶を体験する大きな宿命を負っていく。
 月の巫女、闇の魔女、海の娘、彼女たちの生涯を追体験していく彼の中で、その身に抱えた傷と痛みが飽和した時、“夜の写本師”は完成し、アンジストとの最後の戦いの時が訪れる…。――『夜の写本師』

 他国を平定し繁栄を謳歌する巨大なコンスル帝国。あるとき征服地から皇帝に献上された幸運のお守りだという黒い物体「暗樹」。皆が感嘆している中、皇帝お気に入りのお抱えで大地の魔道師であったレイサンダーは、ただひとりその物体の持つ形容のしようのない太古の禍々しい空気を感じ取り、その瞬間恐ろしい囁きを聞いて、怖れのあまり「暗樹」を捨てて国から逃亡してしまう。魔道師でありながら、自らの裡に闇を抱えていない稀有な存在であったために、自身の魔法能力に限界を感じていた彼の逃亡と模索の日々が始まる。
 一方、大切な少女を守りきれなかったことを悔やみながら、自棄になって大切な書物を燃やしてしまった書物の魔術師キアルス。喪った書物の復刊を目指し、世界の果てまで旅をすることになる。
 このふたりの魔道師が、太古の悪意「暗樹」をめぐり、400年前の死闘によってこの悪意を封じ込めた青年の運命を共有した時、コンスル帝国は、なぜか舞い戻っていた「暗樹」の悪意に蝕まれつつあった。遅きに失したかもしれない今、レイサンダーとキアルスは、この太古の闇を封じることが叶うのか…?――『魔道師の月』

 壮大で、残酷で、美しくて悲しい「物語(テイル)」だ。
 その構成は緻密で、その世界は繊細で、その展開は大胆。時間を大きく飛躍しながらも、それぞれがきちんと結びついて、クライマックスに集約していくお手並みはあざやかだ。(まあ一作目はこちらが予期していないこともありながら、場面転換の入り方が少々手馴れておらず、やや唐突な印象で一瞬戸惑うけれど)
 表現は鉱物や植物の鮮やかな色彩と、魔法の準備や写本制作といった素朴な質感と丁寧な手作業の温度を以って織り上げられていく。

 『魔道師の月』の登場人物は、第1作『夜の写本師』で、カリュドウを助ける老練の魔道師の若き日の姿となっており、時を遡ってつながる造りになっている。
 とはいえ、2作目から読んでも充分に独立した物語として楽しめる各々の完成度だ。(キアルスの悲哀は、順番通りに読んだ方がより伝わるものの)

 “魔術師”ではなく“魔道師”としていること、その文字が導く「陰」のイメージが、己の中に「闇」を持ちながらそれを制御できてこそ一流の魔法使いたりえるという、説得力のある設定にとてもマッチしている。
 人間の欲望や願いを実現させることを生業とする以上、魔法は、呪いや復讐といった昏い目的に使用されることは避けられない。その善悪の判断を超えたところに自らを置ける、それこそが魔道師としての資質である、という定義がよい。

 また“魔法もの”の物語として、魔法に対抗しうるただひとつの手法に“写本師”を設定した視点が素晴らしい。
 「言霊」としての力、書かれることによって効力を発揮する“文字”を、闇の力として身につける「夜の写本師」。この存在と名称に魅せられる。
 写本師としての修業の風景が、羊皮紙のなめしから、文字に使用するインクの選定、製本の過程まで細やかに描かれていて、本好きにはそれだけでもわくわくできる。

 それぞれの魔道師が持つ魔法の特徴や手法、その手順も、石を使うもの、人形をつかうもの、本をつかうもの、血をつかうもの、動物をつかうもの、生贄を求めるもの、と、世界各地に存在していた呪術を敷衍しつつ、丁寧に描かれていることが、この魔法に拠って生きる世界により奥行を与えている。

 しかし、魔法を使っても、時を超えて生き続けても、失ったものは戻らない。
 この喪失の痛みにつながる要素の切り(捨て)方が潔く、中途半端な甘さを残していないことが、物語を残酷で切なく、切実で重たい、そして同時にどこか乾いた大人のファンタジーに仕立てた。

 まあ『夜の写本師』の方では、最後に対決する大魔道師アンジストの生い立ちが自身の母子関係に集約されるのは、ありがちな予定調和ともいえなくもないが、カリュドウが時を超えての3人の女性の生きざまを追体験する(本当の母を知らず、男として生まれながら女たちの生をなぞる)ことと、ある意味表裏をなしているとも読めるか。(写本師としての修行を含め、あまりに彼の経験が印象的なので、アンジストの最後がちょっと物足りないのかもしれない…)

 そして『魔道師の月』における、「暗樹」の在り方がなによりもよい。
 太古の、発生も定かではない、ただそこに在る絶対的な「悪」。
 石のようで、木のようで、見える人間にはそこに顔が現れる、理由も根拠もなく禍々しいもの。
 人の心の闇にするりと入り込み、その欲望を満たすようでいて、不幸に、狂気に、悪に落としていくもの。
 対峙しても決定的に滅ぼすことができず、封印がやっとの、人智を、自然をすらを超えた「悪意」。

 魔道師が、己の中に闇を抱えることで完成されていく、闇を知るゆえにこそ闘いの力となっていくという物語を支えるダークな要素すら、所詮は人間の世界に留まっているちっぽけなものでしかない、としてしまう、この超越した悪意の対置はすばらしい。
 魔道師に対抗しうる存在として写本師を置いたように、太古の「悪意」に対し、闇を抱えない(ことを自らは悩む)魔道師レイサンダーの意味が大きくなってくる。単に“無垢”や“純粋”な設定でないところが登場人物にリアリティを付与してキャラクターを光らせる。

 宿命と選択、運命と意志、不可抗力なことと自ら決断することがみごとな融合を果たした“夜の”ファンタジー。
 静かに語られながら、悠久の時を飛び、激しい感情と密やかな情熱に触れられる、繊細であると同時に大胆な「テイル」にひととき酩酊した。



テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

引きずり込まれる「混沌」のアブナイ快楽 ―『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』―

『メルラーナ街の混沌たる殺人事件』 カルロ・エミーリオ ガッダ  千種 堅 訳(水声社)

 
 いっときの読書を思いっきり滞らせてくれた一冊(笑)。

 「イタリア・ポストモダン小説の金字塔、40年ぶりの改訳決定版」の帯と、ブラックに赤いアール・ヌーヴォー調の葉の装丁、そしてこのタイトル(しかも殺人事件!)、千種氏の訳で、迷わず購入したものの…。

 時はムッソリーニの独裁政治下のローマ。裕福な人間たちの住むメルラーナ街二一九番地にある高級アパルトマンで起きた宝石の盗難事件。それから日を置かずやはりそのアパルトマンの別の一室で起きた凄惨な殺人事件。
 ローマ警察の敏腕刑事イングラヴァッロ(通称ドン・チッチョ)は、優秀な部下を配してこの殺人事件を追う。

 通称のとおり、ずんぐりした体型ともじゃもじゃの黒髪を持つドン・チッチョは、残念ながら颯爽と事件を解決する美しきヒーローではない。しかし剛腕な捜査能力とともに独自の哲学的思考を併せ持った人物。
 ムッソリーニの親衛隊にほとんどの装備を奪われつつも、彼の指揮下、ローマっ子刑事たちは猟犬のごとく事件の解明へと迫っていく……の…だけれど……。

 詳細に語られるアパルトマンの構造、好き勝手に語る住人たちの人物描写、やがて浮かび上がっていくる緑色のマフラーをした男の行方や、殺害された夫人のいとこへの懐疑、マフラーの男に関わっていた美しい浮浪女性、そこから憲兵隊の人間も捜査に介入してきて、対立しつつも共同捜査となり、女の証言を追ってたどり着いた小屋で見つけられる盗難リストに載っていた宝石の数々…。

 と、一応事件解決の兆しはありながら、物語は、ドン・チッチョの殺害されたブルジョワ夫人リリアーナへの密やかな恋心と殺害に受けた衝撃や、容疑者のひとりとして挙げられた彼女のいとこの美青年ジュリアーノへの嫉妬、さらにはリリアーナが抱えていた悩みや彼女の一族の歴史、憲兵隊がたどりつく娼館まがいの染色小屋の“魔女”と呼ばれる老女の話から、そこに働きに来ている女の家のそばを通る鉄道の薀蓄へ、果てはそこで放し飼いにされる鶏の動きの描写、はたまた参考人として捕えた若い女二人の容姿に関する喧嘩などなど、マクロからミクロへ、人物からモノへ、取り留めもなく綴られて、それらはストーリーの厚みを増すどころか、進行は脱線、混迷を極め、いったい誰がどの発言をしているのか、事件に関連する記述はどこからどこまでなのか、ぐるぐると翻弄され、気がつくと勝手に閉じていた…。

 「えっ……?!ペ、ページがないっ!!」

 まさに茫然。
 こんな読後ははじめてだ。

 「ちょっとー!ここまで引きずり回しといてあんまりじゃない?!」

 と、瞬間怒りに叫んだものの、思い返せば取っ組み合っている間はどうやら面白かった…?…みたいで(笑)。
 うーむ、なんだこの消化不良なのに食べずにはいられないようなアブナイ誘惑と、クセになりそうな強烈なインパクトは。

 この悪巫山戯のごとき肩すかしが、ガッタの面目躍如たる才能なのだろう。
 それぞれのエピソードは実に細密に、知的に、そして恐るべきこだわりと強迫的もいえるくどさを持ちながら、実に軽妙にユーモラスに、時にエロティックに語られる。
 さらには処々に、あるいはドン・チッチョの口を借り、あるいは「神」である著者のダイレクトな割り込みによるファシストへの激烈な怒りや批判がアイロニカルな表現で吹き出して、ますます“筋”としての構造は唐突に脱線するのだが、この激しさも時代性を考えると非常に危うい立場であり、ドキドキさせるし、当時のイタリアの文学のひとつの在り方を見せており興味深い。

 そして決してヒーローでないドン・チッチョが何ともユニークで魅力的であり、他の人物もそれぞれの階級や環境の中でのイタリア人気質を感じさせる群像として活き活きとしているし、街や村の情景も色、音、匂いを感じさせるリアリティにあふれている。
 だからこそ物語の混沌が、捜査のドタバタ劇が、文字を追っているだけの読者にも伝播して、振り回される。

 訳者千種氏のあとがきによると、この作品にはイタリアの中でもそれぞれの地方が持つ方言がちりばめられており、そのあたりのニュアンスを日本語にするのに苦労があったとか。
 その点ではおそらく(決して読めないけれど)原文で当たっている方がよりこの悪魔のような魅力に取りつかれることになるのだろう。(結局バラバラに引きちぎられたのだが;苦)筋を追うのに必死だった私にはその楽しさまでをくみ取りきる余裕はなかったのだけれど。

 40年前の初訳のタイトルは『メルラーナ街の怖るべき混乱』。
 改題について冒頭で訳者は内容を正確に伝えていないのではないかと判断したと語っている(原題のイタリア語がすでに曲者らしい…)。
 確かに「殺人事件」に惹かれるところ大だったが、読み終えてみれば個人的には初訳のタイトルの方が、作品を包括しているような気がしている。

 いつか再読してやるっ!と喧嘩ごしにつぶやいて、書棚に収めた愛すべき問題児。


テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

じいちゃんの罵声が楽しく愛おしい秀作ミステリ ―『さよならドビュッシー 前奏曲~要介護探偵の事件簿』―

『さよならドビュッシー 前奏曲(プレリュード)~要介護探偵の事件簿』 中山 七里 (宝島社文庫)


 『さよならドビュッシー』『おやすみラフマニノフ』に連なる、連作短編集。
 タイトル通り、設定としては『さよならドビュッシー』の前の物語。かの作で主人公遥の祖父として、早々に火事で死亡する一代で財をなした香月玄太郎の、安楽椅子探偵ならぬ、車椅子探偵の活躍が描かれる。

 脳梗塞で下半身が不自由になり「要介護」の認定を受けた老人玄太郎だが、その頭脳と口の達者ぶりは健在、引退どころか現在も車椅子生活以外は矍鑠として、相変わらずの毀誉褒貶のワンマン社長ぶりを発揮している。
 この老人、とにかく権威やそこに追随する輩が大嫌い。その毒舌と強引さは、長年に築いてきた人間関係による脅しや強権発動も駆使して、周囲を有無を言わさず従えてしまう独裁ぶり。しかし、そこには彼の一本筋の通った理念が常にブレることなく横たわっているため、なぜか憎めない。

 元気すぎるおじいちゃん玄太郎が、ベテラン介護士のみち子さんとともに、数々の事件を解決していく痛快でハートフル、元気になれる楽しいミステリだ。

     彼の分譲した土地に建設中の家の中で死体が発見される。現場は完全な密室。
    人死にの出た分譲地では販売もままならぬ、と、動きの悪い警察に業を煮やした
    玄太郎は、自ら犯人探しに乗り出す。彼もその実力を認めていた建築家の死の真
    相は?――「要介護探偵の冒険」

     脳梗塞で手足も口も不自由になった玄太郎の、介護士みち子さんとの出会いと
    リハビリの日々。自由にならない身体に癇癪を起こしていた玄太郎だが、みち子
    さんの機転でとんでもない集中力と意志の力を発揮、そのリハビリ施設で彼が見
    出したものは?――「要介護探偵の生還」

     古くからこの土地に暮らしてきた老人ばかりを狙う連続通り魔事件が起こる。
    動かない警察を怒鳴りつけ、強引に小学校の運動会への参加をねじ込んだ玄太郎が、
    自らオーダーメイドし彩色した車椅子を疾駆させて暴いた犯人は?――「要介護探
    偵の快走(チェイス)」

     行きつけの銀行でなんと銀行強盗に遭い、みち子さんともども人質として拉致され
    てしまう玄太郎。かなりの知識と技術を持った4人の強盗犯に、銃を突き付けられな
    がらも毒舌を爆発させる玄太郎にみち子さんはハラハラ。さてこの攻防やいかに?
    ――「要介護探偵と四つの署名」

     長年のライバルであり、資金援助もしてきた政党の大物国会議員が毒殺された。
    何も摂取していないのに青酸カリにより死亡したこの古きよき敵のため、玄太郎は
    その解決を決意する。人を見る眼には絶対の自信を持つ彼が認めた新しい賃貸者、
    ピアニストの岬に協力を仰ぎ、犯人を追いつめていく先にあるものは?――「要介
    護探偵最後の挨拶」

 5編共に玄太郎の生涯をつづりながら、ひとひねりあるミステリとして仕上がっている。
 
 とにかくこの障害を持つおじいちゃんのキレ方とその罵声、それに右往左往する周囲の人間、あきらめ切っている家族の反応、そしてその性格を見切っているベテラン介護士みち子さんとの丁々発止のテンポよいやり取りが楽しい。

 事件を書斎で解決するのではなく、車椅子でどんどん(入ってはいけない)現場にも踏み込んでいくその原動力、言うことやることめちゃくちゃな老人の、怒りは常に強いものにまかれ、あるいは自身の弱さを逃げの言い訳にしているものに向かっていく。そこには足が不自由なことも、老人であることも、すべてをありのままに受け止め、かつそれらをハンディと思わない強靭な生き方が在る。
 みち子さんの介護士としての誇りも、決して対象を不幸な人として憐れむことなく、一個の人間として対しているから、このふたりがものすごくかっこいい。

 それぞれのエピソードは、3.11の震災をはじめとする現代の社会問題を取り上げ、人間の欲や弱さ、悪意や怯懦を浮き上がらせ、悲しく厳しい結末を現しながら、傲岸不遜な要介護探偵の強引さと底に流れるやさしさがほの温かい感傷を残す。
 各々の事件が、スパイスの効いた謎解きになっているのは、この玄太郎に託して語られる社会問題に対するそしてハンディのある人間に対する主張とスタンスが、大きな重たいテーマを私たちに突き付けるからだ。

 先4編はどちらかというと介護士みち子の視点から、最後の1篇は玄太郎の視点で進み、そして新たに得た岬という信頼できる人物に後を託すように『さよならドビュッシー』へとつながっていく造りは、各篇の配置とともにみごとな構成だ。

 先2作では、その音楽的叙述に引き込まれたが、ミステリとしては人物造形も含め、この作品が秀逸じゃないかと思う。
 すでに「最後の挨拶」でみごとに閉じた物語だけれど、玄太郎じいちゃんとみち子さん、できれば他のエピソードで再会したいほどに。

 先2作を読んでいなくても十二分に楽しめる。気持ちよく切なく、歯切れよくそれでいてなかなかに重厚、ぜひお奨めの一冊だ。


テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

偶然と意図との幸福な融合にゾクゾク ―『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ展』

『マックス・エルンスト フィギュア×スケープ展 時代を超える像景』 (横浜美術館)

Ernst_Figure_Scapeチラシ
 この前の展覧会もいまだまとめてられていないのだが(汗)、とてもよい作品に逢えるので、これくらいは開催中に(ってあとわずかだけれど…)。
 ※エルンストはまだ著作権が厳しいらしく、個人のちっぽけなブログながら今回画像は載せないことにしました…とっても残念ですがチラシでご容赦ください

 海外からの日本初公開のものを含めて、「フィギュア(像)」と「スケープ(景)」を切り口に、エルンストを観ようと試みた展覧会。
 鳥や女、マネキンや不思議な顔などが、時に愛らしく、ときに不気味に描かれ、フロッタージュやグラッタージュによって生み出された偶然性を持つ文様が森や海に変容していく彼の作品を、「フィギュア×スケープ」はどのように解釈していくのか、タイトルだけでも楽しみにしていたもの。

 そのテーマに沿って、年代を追いながら3つの章をさらに小タイトルで分けつつ、版画、コラージュ、油彩、彫刻など、多様な作品を集めている。

 「フィギュア」をキーワードに時系列を3章に分けた構成。
 世界的に有名な画家の個展としては130点は決して多くはないが、疲れない規模で、多様なエルンストの表現を観られる細やかな内容になっている。
 
 第一章 フィギュアの誕生1919-1927
 第一次大戦から従軍から帰還したエルンストが、その戦争の悲惨と生命の軽視を痛感した若者たちによって起こされたダダの活動にいち早く参画した時期のコラージュや版画に見出されるモチーフから「フィギュア」の誕生を見出し、さらには多様な技法とともに油彩へも拡げられていくさまを観る。

 リトグラフ『流行は栄えよ、芸術は滅びるとも』は表紙を含めた9葉すべてが並べられ、表情も肉体の柔らかさも失ったマネキンが、キリコを思わせる幾何学的な風景の中に配置され、不思議な空間の中にシニカルに、ユーモラスに、そしてどことなくエロティックに描かれている。
 アイロニカルなタイトルと共にそれらの数学的な線を追っていくのは、そこに何が描かれているのか、というよりも、その画を観ている私たちの脳に伝わる刺激が楽しい作業となる。

 コラージュ作品からは、彼の生涯を通じてのモチーフとなる「鳥」が現われる2点。
 横浜美術館の所蔵である『白鳥はとてもおだやか…』と、今回の目玉のひとつである『聖対話』。
 『聖対話』は、厳密にはコラージュではなく、現在は失われているコラージュ作品を写真にしたものであるが、世界に3点見つかっていたものの、これは4点目として近年に発見されたものだそうだ。
 女性の解剖のための人体模型の写真に鳥や扇を配したこの奇妙で小さな作品は、ナチスドイツの退廃芸術展に展示され現在は失われてしまった≪美しき女庭師≫の油彩へとつながり、さらには戦後の作品≪美しき女庭師の帰還≫へと変容して現れる。今回の展示ではこの≪帰還≫が最終章で展示されていることも見どころのひとつ。 

 油彩では当館所蔵の≪毛皮のマント≫をはじめとして、国内の美術館から≪偶像≫(大阪市立近代)、≪子供、馬そして蛇≫(豊田市美)、≪怒れる人々(訴え)≫(京都国立)が、さまざまな手法を組み合わせ、それぞれに多様な質感とイメージを持つ世界を拡げている。観慣れたつもりの≪毛皮のマント≫も、常設展示で逢うのとはまた異なる印象を与えて新鮮。

 第二章 採掘された「フィギュアスケープ」1925-1952
 ここでは両大戦間のフランス、そしてアメリカに亡命した頃に作成されたものが観られる。一章が対象としての“フィギュア”そのものの表出とするならば、二章は描かれた世界に現れてくる“フィギュア”を見つけ出すことがテーマとなっているようだ。
 テーマはともかく、ここからはもう楽しくてしょうがない世界が続く。

 まず嬉しいのは≪博物誌≫の版画が展示替えを含めて全葉観られたこと。フロッタージュの組み合わせによって、多様な像や風景が浮かび上がったこの版画は、そのタイトルとともに豊饒なイメージを喚起してくれる。
 それはエルンストが生涯追い続けた無意識と意識との幸せな共存を分かりやすく伝えてくれる。フロッタージュによって浮き出る板の目や葉脈の文様は、彼の美意識によって組み合わされ、さらに彼の頭に浮かんだ「ことば」を付与されて、魅力あふれる世界に変容する。
 美しい色彩にあふれた油彩作品にも活かされていくのはもちろんながら、偶然性と作為との微妙なバランスがもたらす魔法のような結合が、シンプルな鉛筆の跡を感じさせる濃淡に鮮明に感じられる。
 魔術師に憧れていたというエルンストの、まさに錬金術の基本を提示された思いだ。

 この高まりのままふり向けば、そこにはフロッタージュの森に描かれる「鳥」と「太陽」のシリーズが並ぶ。
 ≪期待≫、そして≪自由の賞賛≫では、深い森の底にある柵のこちら側に白い鳥が留まっている。飛んで行こうと思えばいつでも飛べる状態にありながら、それでも籠のそばに佇む鳥の姿は、そのタイトルと出逢ったときに、“期待”や“自由”の持つ意味を深々と伝えてくる。またこの鳥たちがなんともかわいい表情だから、なお愛おしくなる作品だ。

 そして≪森≫、≪石化した森≫のシリーズ。今回は、岡崎市美と国立西洋、鹿児島市美、富山県立近代などから5点。
 いずれも、今年日本中を楽しませてくれた金環蝕を思わせるリング型の太陽が、暗い森にかかっている、大好きな連作たち。
 欲を言えばここに川村と国立近代のそれも並べて観たかったな、と。これだけでもかなりの迫力、きっと壮観だったろうに。

 暗い森を抜けると一転、そこにはカラフルなグラッタージュによる風景がハッとさせる。特に≪風景(貝の花)≫や≪海と太陽≫は、白い表面の下から浮かび上がる色層が美しく、思わずため息が出る。

 ここではまた、エルンストが「コラージュ・ロマン」と呼んだ挿絵本の代表作からのコラージュ作品が、書籍そのもの、版画、さらに原画で展示されている。『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとした少女の夢』、『慈善週間または七大元素』の、河出文庫からも刊行されたメジャーなものたちは、しばらく離れていたコラージュ作品として再開されたものだそうで、19世紀のさまざまな大衆紙からのイメージを切り抜いたものが組み合わせれ、あるものは滑稽に、あるものは残酷に、あるものはエロティックに、既存イメージの持つ軽薄さや軽やかさと同時にどこかしら意味深な空気をまとって、私たちを物語の奇妙な世界へと誘う。

 さらにはマン・レイによりコラージュ作品の黒白を反転させ、より幻想的な雰囲気を持つ『ナイフ氏とフォーク嬢』は、どこか魔術的なまがまがしさとエロスを湛え、そのダダ的なふざけたタイトルとともに想像力を掻き立てる。
 これらもまた展示替えでかなりの点数を観ることができた。

 ツァラの『反頭脳』の挿絵も、小品ながら赤や緑、青やピンクといった8点のカラフルなアクアチントに、エッチングで描かれた線画が、いろいろな「顔」を作っていてかわいい。

 第三章 フィギュアの再訪1950-1975
 大戦後、避難していたアメリカから改めてフランスに戻ったエルンストの晩年の作品を中心に、彫刻までを含めた彼の造形に“フィギュア”を観ていく章。
 横浜美術館の展示では、スペースの関係か、二章と三章の作品が入り混じっていたので、どうも章のテーマに沿って観ることはなかったのだが、とにかくすばらしい作品たちに出逢えて、すっかり舞い上がる。

 出迎えてくれたのは、彫刻作品≪バスティーユの精霊≫。3m以上のひょろりと細長く、凹凸のある柱のてっぺんに翼を広げた鳥(?)がパカーッと眼と口を開いている。なんとも楽しくてキュートで、すっかり一目ぼれ。置くことが叶うなら(笑)持って帰りたい作品だ。

 ウキウキした気分で部屋に入ると、ルートヴィヒ美術館所蔵の≪パリの春≫に再会。窓か額縁を思わせる矩形のある部屋に描かれた4つの顔(仮面)。どこか陰鬱な感じを残しながらも、ユーモラスな表情をしたそれらの組み合わせは、描かれた1950年という年代を考えた時、激動の時代に生きた彼の絵画に込めたもうひとつの思いを改めて感じさせてくれる。

 ここからは油彩の上品が並ぶ。
 真っ赤な人物の頭部を描いたのかと思いきや、その表情を作っている顔の要素は、キスする2羽の鳥になっているステキな≪鳩のように≫、青から灰、黒を基調に、フロッタージュが重なり合って廃墟のような、城のような風景の中に浮かび上がるのは白馬(騎手)のシルエットとその肩に止まる鳥が美しく、一枚にして繊細で優雅、勇壮で悲劇に富む騎士物語を紡いでいるかのような≪ポーランドの騎手≫。この作品、よく見れば白い馬(か騎手?)の体の部分には、これまた接吻する鳥の姿が…!(かわいい!)

 その隣には当館所蔵の湖の周りに繁茂する苔のような植物の群れがいろいろな動物になっていて、まるで判じ物のような≪少女が見た湖の夢≫がある。

 ここまで、眼に見える世界と眼に見えない世界とをひとつの作品にまとめ上げていったエルンストを強く感じてきた状態でこの作品と再会した時、そこに描かれる像としての“フィギュア”と、描かれている世界としての“スケープ”の分かちがたい一体化をこれほどみごとに表していたのだな、と目から鱗のような思いだった。

 さらに≪ニンフ・エコー≫では、ルソーを思わせるような熱帯の植物の中に、同色の緑で隠れている鳥が描かれる。これもその森の世界はフロッタージュやデカルコマニーで作られている。木の生える崖を遠景で描いたように見える、色彩の美しい≪風景≫も、デカルコマニーだ。

 暗い地底に光る鉱物の輝きを放っているかのような赤い結晶の集積が浮かび上がり、逆三角形の頭部を持つ人体像をあらわにしていく≪大アルベルトゥス≫は、彼が尊敬していた錬金術師の像とのこと。まったく異なる筆致ながらベーコンの肖像画を思い出させたこの作品は、どことなく厳粛な空気を放っている。
 チラシになっている≪ユークリッド≫も、印刷画像ではなんとなく敷居が高いような、小難しい印象が残るが、作品は軽やかで楽しく、もっと魅力的だ。

 そして思わず「キャー」と(小さい)悲鳴を上げてしまったのが、今回初来日だという巨大作品≪嘘八百≫!!
 緑の木漏れ日か、水面の陽の光のような切子状の画面に、鮮やかに浮かぶオレンジの球体(私は果物のオレンジかと思った…笑)。その中に線画で浮かび上がるのは、奇妙な格好や表情をした人体らしきものや、魚のようなもの、鳥のようなものたちなどの動物だ。
 学芸員さんの話によると、所蔵先のポンピドゥでは、子供たちが走りよって触れそうになるため、ギャラリートークなどの時には別の苦労があるとか。確かに子供でなくとも、思わず抱きしめたくなる(って大きいけど;笑)絶品だ。
 もうすでにハイテンションで廻ってはいたものの、この1点に出逢うだけでも来館の価値はある。ほんとうにいつまででも前に佇んでいられる、というか絵の前で飛び跳ねたくなる、自然に笑顔になってしまう、明るくて楽しくて、幸せな作品。

 今回、実はこれ以外にも日本初公開があり、先の≪大アルベルトゥス≫、さらには二つの火山のイメージを描いた≪ふたつの基本方位≫もだとのこと(3つは並んで展示されている)。
 (もっと宣伝すればよかったのに…ポスターも≪嘘八百≫にすればよかったのに…、と)
 
 もうひとつの横浜美術館所蔵品≪子供のミネルヴァ≫も、いつもそのあっけらかんとした表情に思わず笑みがこぼれる作品だが、ここに並ぶとよりその切子細工のような画面の造りの繊細さと楽しげな雰囲気が活きてくる。

 彫刻は、かつて大丸美術館(改装前)で出逢ったユーモラスなものたちと再会、そして相変わらず持って帰りたいチェスの駒≪クィーン、ビショップ、ナイト≫にへばりつき、その後いくつかの版画作品やコラージュがならび(これらもまた造形、色彩ともにかなりみごたえ充分だが、きりがないので割愛;タイポグラフィーの創作のような版画集『マクシミリアーナ、あるいは天文学の非合法的行使』が、エジプトの象形文字のような造形と文字の配列の絶妙なバランスでまた違った作風を堪能できる)、いくつかの鳥のモチーフ作品を味わい、最後のコーナーへ。

 鉄の鋲や木のはしご状のものをつけたミクストメディアの≪偉大なる無知の人≫、エルンストにとって魔術師としての制作の生涯とともにもうひとつの生き方としてのダダ、政治的、歴史的な美術の持つ力への思いであり、そしてこの展覧会のもうひとつのテーマであるのだろう円環としての作品≪美しき女庭師の帰還≫、圧倒的な色彩とテクスチャーの美しい融合を果たした≪最後の森≫で締めくくられる。

 燃焼しきった満足感で出口に向かうと、ユーサフ・カーシュの撮ったエルンストの肖像写真がポツリ。
 自作の彫刻に頬をつけてこちらを見つめる晩年の彼は、若き日の美貌を思わせる端正さを失わず、強い光の瞳が印象的だ。

 ある作品ではより作為を感じさせ、ある作品では偶然性が微妙な組み合わせとして成立したようにも見える、創作としての両者のバランスが自在に、軽やかに譲り合い、拮抗しつつ、融合して飛翔していく。ちょっとずるいな、と思えるほどに理知的でありながら自然で、美しく、妖しく、そして楽しくて愛おしい。

 正直なところ、コンセプトとしての「フィギュア×スケープ」の試みの美術館側の解釈は、残念ながら私にはあまり伝わってこなかった…。“フィギュア”の定義がよく分からなかった(単なる「像」の直訳としか感じなかったせいか?)のと、スケープの捉え方が「×」で“フィギュア”と結びついているように受け取れなかったため。
 シンプルに経年で追うエルンスト展でよかったかも。あるいは≪女庭師≫の円環を強めた主題でも(展示内容が変わってしまうかもしれないが…)。

 とはいえ、展示されている作品は、油彩、版画、書籍、彫刻、いずれをとってもエルンストというアーティストの魅力を存分に伝えてくれる。

 まあ勝手に「フィギュア×スケープ」で期待を高めすぎたせいかもしれない。ただその意識を持っていたおかげで、エルンストの作品にいつもより近づいて自分なりの解釈と鑑賞ができた点では感謝だ。

 あまりにも楽しくて珍しく展示替えにも再訪した展覧会。
 まもなく終了だけれど、ちょっと逃すには惜しい内容だ。巡回もあるらしいので、機会があればぜひ。

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

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